歓喜山圓徳寺の縁起来歴にもまた謎がつきまとっています。創建(開創)をめぐる歴史がわかりません。史料や言い伝えには空隙がありすぎます。が、長沼津野村とは深い縁があります。 ともあれ18世紀には寺内に少なくとも2つの寺院(支院格)と寺町を擁する大寺院になったそうです。


◆寺町を擁する大寺院だった◆



▲石畳の幅広の参道の先に手水舎と石段、その奥に本堂の大きな屋根が見える

▲晩秋には桜とドウダン並木が美しく紅葉する。門柱の先は飯山街道。



▲境内のなかにある仏名田という不思議な庭園


▲仏名田から参道に入る、これまた不思議な門


▲参道左脇(西脇)にある手水舎。背後はリンゴ園。


▲先祖の霊を供養する小堂(孝養殿)


▲境内庭園風景に溶け込んだ鐘楼。梵鐘は1947年に再鋳された。


▲重厚な本堂。1984年に大修復されたという。


▲庫裏客殿もまた広壮でみごと


▲主棟鬼飾には三つ葉葵の寺紋が配されている

  18世紀には、圓徳寺の南側は寺町と呼ばれる門前町があったという。善光寺の仲見世通りを小さくしたような街区があったらしい。正伝寺や正福寺のほかにも塔頭支院があった可能性があり、にぎやかな集落だったようだ。

■長沼とは浅からぬ結びつき■

  1683年(天和2年)の飯山藩への報告では、圓徳寺は「東本願寺末神代圓徳寺 寛永13年(1636年)丙子3月28日建立 寺領これなし 寺庫裏下打ち抜き」ということになっています。建立は1636年で、本堂と庫裏が一体となった簡素な堂宇だったようです。
  ところが寺伝では、越後高田浄興寺(住職)の四男、空善が長沼の正覚寺に仮寓し、長沼に圓徳寺を創建したそうです。長沼とは深い縁があるようです。


六地蔵蓋殿脇の馬頭観音

  13世紀はじめに創建された常陸稲田の浄興寺は、やがて戦火で焼失して葛飾郡に移ったのち、1267年に土地の寄進を受けて長沼津野村、正覚寺の前に遷移しました。しかし1561年、武田家の北信濃侵攻と合戦によって兵火を浴び、寺院は灰燼に帰してしまい、5年後、上杉謙信の招きによって春日山城下に寺領を与えられ、移転しました。その後、直江津を経て高田に移りました。
  空善は因縁浅からぬ正覚寺に身を寄せて長沼に圓徳寺を建立したのです。が、それが1636年ということでしょうか。
  ともあれ、圓徳寺はその後1647年(正保年間)、中尾村に移り、さらに神代村に畑地を買い入れ本堂を1657(明暦年間)に竣工したのだとか。1705年(宝永年間)には3世照空が梵鐘をつくって鐘楼を建立しました。


石段の上から参道を振り返る。かつて寺町があった。

  18世紀前葉、圓徳寺は大規模な寺となり、寺内に塔頭支院格で金胎山正伝寺と神田山正福寺を擁し、門前は寺町と呼ばれていたようです。正伝寺は、かつては聖林寺の支院、正伝院だったのですが、武田家と上杉家の勢力争いの戦禍で失われたか衰微したかしたものを、1572年に圓徳寺の境内に堂宇を建立して復興したものだと伝えられています。その頃、浄土真宗の僧たちが、荒廃ないし衰微した古刹を自派の寺院として復興する運動があったものと見られます。
  正福寺は1462年(寛正年間)、越後頚城郡清里村に正響が創建し、1595年に神代の近隣の鷲寺村に移り、さらに1686年に圓徳寺の寺域内に堂宇を建てて塔頭となったそうです。
  ところが、1758年(宝暦年間)、神代宿の大火で圓徳寺も支院2寺も焼失、再建されたのは1803年(享和年間)でした。その10年後、長沼に逗留していた小林一茶は、「神代村歓喜山圓徳寺宝物披露」を日誌に記しているとか。

  1873年(明治6年)には圓徳寺のお堂を借りて神代学校が開校。その学校が移転した1876年には正伝寺の火災で圓徳寺も類焼してしまいました。本堂や庫裏、宝蔵などの再建立落慶は1889年(明治22年)でした。再建された堂宇は村人が集う場となり、村の品評会(共進会)や講演会などがおこなわれたそうです。
  火災の後、寺域内にあった2つの寺院はほかの村に移転しました。
  今の本堂などは1984年(昭和59年)の大修復によるもので、境内庭園も整備したそうです。

本堂、回廊、庫裏、美しい庭園

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