上松町小川の諏訪社をめぐる環境は昭和後期から大きく変わってきました。
  とりわけ「お宮の森」と呼ばれていた広大な社叢(神域の森)は、住宅地や上松小学校や社会体育館など街施設の建設のために半分以上が削られてしまったようです。さらに尾張藩材木役所跡にあった五社神社が諏訪社拝殿の脇に移設されました。境内を探索して往時の姿を想像してみましょう。


◆往時の旅人が見た諏訪社はどんなだったか◆



今は大鳥居から上松小学校の校庭を横切って諏訪社にお詣りすることになる



▲上松小学校の校庭: 赤い線の辺りを中山道が通っていたか


▲大鳥居は小学校の校庭にのぼる石段の上に移設されている


▲丘斜面の改造でできた段差を石段でのぼって社殿にいたる


▲じつに重厚な拝殿で、格式の高さがうかがわれる


▲拝殿の斜向かいに移された五社神社の蓋殿


▲拝殿の後ろに幣拝殿、最奥に本殿が配置されている


▲本殿背後には鬱蒼とした針葉樹林がある


▲樹林を往く小径の傍らに立つ馬頭観音

 拝殿と幣拝殿と本殿を擁する結構からすると、この諏訪社は木曾における拠点としてしかるべく諏訪大社から直接に勧請分霊された社だと見られる。したがって、尾張藩の林政の転換までは、御柱祭が催されていたと推定される。

■諏訪社をめぐる環境と風景■

  諏訪社の近隣(宮前、小川、久保寺、観音)の地形と景観は、明治以降に急速かつ大規模に変わってきました。諏訪社の境内・神域・社叢は、ことに上松小学校や町施設のため用地造成、さらに国道19号上松バイパス・トンネルの建設によって、往古の名残りはすっかり失われてしまいました。
  往古の諏訪社の神域・社叢の姿については、推定・想像するしかありません。
  まず江戸時代の中山道は、左の写真に示した経路だったと見られます。現在は諏訪社の西隣の校庭は平坦で水平になっていますが、昔は社殿の辺りを頂点とする尾根丘の斜面が栄町の方(西方)に緩やかに下っていて、鬱蒼とした樹林になっていたようです。樹林は中山道によって南北に断ち切られ、街道の向かい側には材木奉行所がありました。
  諏訪社の樹林は、久保寺の背後に迫る天狗山の尾根から宮前を経て、大宮社がある尾根まで続く広大な山林と連続していたはずです。
  古代から幕末までは神仏習合の格式のもとに寺院や神社は造営・運営されていましたから、諏訪社には別当寺がともなっていたはずで、――たとえば神宮寺と呼ばれるような――有力な寺院があったと見られます。寺院の境内・寺域は諏訪社と一体化していたでしょう。しかし、木曾地方では明治維新において神仏分離・廃仏毀釈運動に民衆が扇動・動員され、寺院の破壊がすさまじい規模でおこなわれ、文物も破棄・破壊されたため、どんな寺院が破却されたのかはわかりません。

  ここまで推定しただけでも、この辺りの地形と風景は現在とまったく違った様相だったことがわかります。


拝殿の奥の幣拝殿と本殿が見える内陣の様子

■御柱祭りがない諏訪社■

  上松の諏訪社には江戸時代から御柱祭りがなかったと伝えられています。郷土史家たちはその理由として、この社が諏訪の大社から直接に勧請分霊して創建されたのではなく。京洛方面から勧請されたからだという、もっともらしい理由づけをしています。
  私は、この見立ては間違っていると考えます。私が考えた筋書きはこうです。
  この諏訪社は尾張藩材木奉行所の目の前にあります。材木奉行所は、木曾領の山林行政を転換・再編して、立木の伐採を厳格に統制し、ことに一般民衆による立木伐採を禁止するために設立された役所です。
  御柱祭りは、地区ごとの氏子団体が式年造営大祭のために7年目ごとに山林からモミの大木――諏訪以外の地方によっては杉――を選んで伐採する権利がないと実現できません。
  尾張藩の材木役所による林政にける統制は、伐採はもとより、明山のほかには民衆の入山さえ厳格に統制していたので、御柱用の立木の切り出しはできません。
  してみると、1660年代の林政の転換によって諏訪社の御柱祭りはおこなうことができなくなったと見るべきでしょう。それ以前は、上松の諏訪社での御柱祭りがあったと考える方が自然ではないでしょうか。


五社神社の蓋殿も木曾らしい造りだ

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