臨済宗の聖岩山玉林院は、戦国時代に上松の領主、木曾義豊(植松蔵人)が開基――屋敷地を寄進――して創建されたと伝えられています。開山は義豊の大叔父、玉林禅師だそうです。
  寺域は天狗山の裾にある丘陵高台で、木曾氏の屋敷や城館・砦が連なる一角で、上松の城下町を見渡す場所に位置しています。


◆木曾に特有の城郭のような構えの禅刹◆



あたかも城郭のように石垣で支えられた段郭の上に本堂の結構が屹立



▲中山道から小路を入っていくと玉林院の山門の前に


▲山門脇に並ぶ石仏・石塔群。奥の土塀越しにに釈迦座像。


▲鐘楼門は鐘楼というよりも城郭の櫓門という趣


▲本堂前から鐘楼門を振り返り仰ぎ見る


▲広壮・重厚な庫裏と本堂が並ぶ


▲本堂前から境内を見渡す


▲本堂と向き合う観音堂

 本道の背後の丘高台には江戸時代に天満宮が祀られたので、この高台は「天神山」と呼ばれるようになったらしい。ここには上松の街を見おろす上松氏の城館があったという。下の図を参照のこと。

◆屋敷城館跡に創建された禅刹◆

  山号の由来は、裏山に聖岩と呼ばれる岩場があって、玉林が座禅をしたという事績だとか。
  寺伝によると、玉林院という寺号は、上松領主の木曾義豊が大叔父で定勝寺の3世住職を務めた玉林の隠居所として創建したことが由緒だそうです。木曾氏は屋敷と城館が並ぶ大きな敷地の中央部を寺域として寄進し開基したようです。玉林禅師は1579年(天正7年)に没したとされているので、開山・創建はこれよりも数年は早い時期だと見られます。
  木曾家に関する史料は混乱した内容だということですが、上松に居館を構えたのは、木曾家14代領主、義賢の弟の家信だということなので、木曾氏一門の領主による上松の統治は15世紀末には始まっていたのかもしれません。
  義豊の代には、その後の上松宿の本陣あたりから玉林院を経て、寺の裏に迫る丘陵高台まで城館と砦が広がっていたようです。
  その広大な屋敷・城館敷地の中央部が寺の寺域となったということです。戦国時代には寺院は堅固な結構で、その地の領主が兵員を配備した砦の役割を担っていたのです。


鳳が翼を広げたような鐘楼門の大屋根


境内北側の小路から眺めた本堂

  城郭のように堅固な構え・・・それは、街道から小路に入っていって鐘楼門の前に立った時の印象です。それは頑健な楼門=矢倉門(櫓門)に鐘楼を吊りおいた山門です。楼門の東脇には石仏・石塔群が並んでいて、塀越しには、この寺の本尊である釈迦如来坐像――蓮台から上の姿――が見えます。
  鐘楼門をくぐると、やや手狭の境内となって重厚な本堂や庫裏などの堂宇群を間近で見上げることになります。玉林院は山裾の高台斜面にあって手狭なので、広い境内庭園はありません。境内西端、石垣の縁には観音堂があって、本堂と向き合って独特の緊張感をもたらしています。
  境内寺域の、この手狭さはまた堂宇群が凝縮している強さ、堅固さを印象づけます。季題北側の小路を歩いてみると、山城の段郭上に堂宇群が屹立している姿を目にすることになります。


観音堂前から本堂を眺める


低いシルエットの庫裏だが広壮だ



出典:『上松町誌』第3巻、第5章 p237

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