塩名田宿東端の道祖神から旧中山道は東南東に向かいます。しばらくは農村らしい家並みが続き、やがて丘に向かって緩やかなのぼり坂となります。これが駒形坂で、塚原から千曲川に流れ下る小河川、濁川が削り出した小さな谷間を通って塚原集落にいたります。塚原の南端を縁取る段丘斜面は、浅間山麓の扇状地の南端を千曲川とその支流、湯川が切り削ってつくった地形です。 扇端部の段丘は大きく見て二段重ねになっていて、塚原から駒形、塩名田にいたる丘斜面は、上の方の高台です。


◆家並みを過ぎると塩名田から塚原に向かう駒形坂◆



中山道沿いで昭和中期に養蚕を副業としていた農家の造りが保たれている民家



▲道祖神は昔からここにあったのだろう


▲緩やかに曲がる旧中山道と道沿いの集落


▲ほとんどの家屋は昭和期中期よりも新しいの建築だと思われる


▲裕福な農家で屋敷地の入り口に小ぶりの薬医門を設けてある


▲かなりの坂だがほぼ直線的に進む道路


▲打球の頂部が近い。この先の左(北)側に駒形神社がある。

 上の写真の左手は、沢が形成した谷間になっていて、その対岸(北側)の高台に駒形神社がある。渓谷は人為的に改造した形成がある。堀切のような溝があって、高台も削られて切岸状に整形されたかに見える。戦国時代に物見砦があったらしい。


昭和中期に養蚕を営んだ家屋の造りを残している

  今回の街道歩きは、塩名田宿の東端、新旧中山道と県道78号が交差する五差路の南東側に立つ道祖神の前から旧中山道を東南東に進みます。ここが宿場街の出入り口だったのです。
  ということは、ここにクランク状に2回直角に曲がる道筋にした設備、桝形があったはずです。おそらく石垣を施された塁が向かい合っていたことでしょう。
  往時の旅人は道祖神近辺でどのような風景を眺めていたのでしょうか。それを想像するためには、少なくとも県道78号と新中山道はなかったものとして、一帯の地形や景観を探索する必要があります。
  塩名田宿の街通りと道祖神から先の中山道とが2~3メートルくらいの筋違いになっているように見えます。これは当時の道筋の痕跡(遺構)なのでしょう。桝形で道筋がそれだけズレたのです。
  おそらく桝形の近くの草地に道祖神や庚申塔や二十三夜塔が置かれていたのでしょう。ことに道祖神は、村落の出入り口や、街道と村道とが交差する場所に設けられていて、そこに集落の人びとが集まって祈りと娯楽が入り混じった祭事を催していたようです。
  道祖神の前は、山王日枝社(現塩名田神社)への参道の起点ともなっています。中山道南脇に並ぶ宿場の町家の背後には真言宗の長寿寺があって、街道とその裏道が長寿への参道とんっていました。だから、参詣案内の石塔や石碑がこの辺り、道祖神の近くに立っていたと考えられます。
  してみると、ここは往時の人びとの祈りの場であり、信仰の道ともなっていたのです。

  さて往時、道祖神の周りでは家並みが途切れ、道脇に田畑が続く地帯があって、道祖神を過ぎて少し間をおいてから、旧街道沿いに別の村落の家並みが始まったと推定できます。
  その村落は塩名田村の分郷とでもいうべき小村で、別の神社や寺が必要になるほどの人口・住戸数ではなかったと見られます。

  ところで、塩名田から岩村田まで、旧中山道は「丘陵の背骨」ともいえる微高地を辿っていく道筋です。ところが、塩名田から段丘を下塚原までのぼる駒形坂は、濁川の谷間を往くことになります。丘陵の尾根が沢に削られて2筋に分かれていて、濁川の浅く狭い谷間に沿ってほぼ直線的に段丘斜面をのぼっていくのです。


道幅が広くなっているところもある

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