中山道八幡宿の町割りと街並みの絵地図

  下掲の絵地図は、中山道八幡宿の町割り(敷地割り)と住戸配置を示したものです。いずれも『浅科村史』嘉新の引用です。
  八幡宿は江戸時代、中山道沿いにおよそ7丁半(800メートル)の長さの街並みを形成したと伝えられています。信州の中山道の宿場街としては相当に大きな街並みです。しかし、本陣や脇本陣以外の普通の旅籠は小規模で商家店舗も少なかったと記録されています。ところが、本陣と脇本陣の規模と造りはきわめて立派で大規模で、しかも脇本陣も3〜4軒もありました。どういうことなのでしょうか。
  史料に残されているところでは、参覲交代の旅で八幡宿に宿泊した大名家の数はだいたい10家で、休憩は7家だそうです。これに対して、望月宿では宿泊する大名が44家、休息が18家です。
  考えられる理由は、八幡宿には格式の高い藩侯や大身の藩が大名や上級家臣を宿泊させたからだろうということです。格式が高く大身の大名家に向けた特別の宿泊設備が用意された宿場だったということです。望月宿あるいは塩名田宿、長久保宿などを常宿とするとしても、一つ二つの宿場では大人数の随行者を宿泊で受け入れることができず、大藩の場合には大勢の上級家臣を八幡宿に分宿させたのだろうということです。
  幕末、皇女和宮の江戸降嫁のさいには、和宮とその側近を八幡宿に宿泊に宿泊させたそうです。
  また、御馬寄村から塩名田宿には千曲川を時代によって橋や渡し船などで渡渉させたのですが、千曲川は暴れ川で、大雨が降ると何日も川止めになって、千曲川の両岸の宿場や村に参覲大名も含めて、多数の旅人や貨物が滞留してしまうため、八幡宿の収容力を大きくしていたのではないでしょうか。



出典:浅科村史編纂委員会『浅科村史』、2005年刊、p404−405(画像を編集加工)、以下の3点も同じ。原典は文化13年の史料から作成。

  この絵図で、住戸が「伝馬屋敷」と「無役屋敷」とに区分されています。
  伝馬屋敷とは、休損からの移住にさいして、八幡宿の貨客の輸送継立て業務を担うことを義務付けられることと引き換えに宿場街に住居と敷地を与えられた住民の屋敷を意味します。
  しかも、八幡宿に移住後も、住民たちは旧村(出身村)ごとに行政区・住民集団として組織され、行動していました。分散して居住しているのに、村落としては以前のまとまりを維持し続けたのです。同じ宿場内とはいえ、離れ離れに居住していて村祭りなどの行事などで不便はなかったのでしょうか。
  住民たちは、上町や中町の住民というよりも、蓬田村民、桑山村民、八幡村民という意識で暮らしていたということになります。






  下の町割り図は、宿場町割りの各敷地に蓬田村、桑山村、八幡村のいずれのから移住したかを示しています。
  蓬田村は中町から上町にかけての街区に比較的にまとまって移住していますが、全体としては3か村の住民はまとまらずに分散的に移住したことがわかります。一方、宿場街としては西から上町(上宿)、中町(中宿)、下町(宮本)という街区名もあったようです。
  しかも、八幡宿に移住後も、住民たちは旧村(出身村)ごとに行政区・住民集団として組織され、行動していました。分散して居住しているのに、村落としては以前のまとまりを維持し続けたのです。同じ宿場内とはいえ、離れ離れに居住していて村祭りなどの行事などで不便はなかったのでしょうか。
  住民たちは、上町や中町の住民というよりも、蓬田村民、桑山村民、八幡村民という意識で暮らしていたということになります。

  ところで、下の絵図は明治220年の行政関連資料をもとにしたものですが、本陣や脇本陣の敷地は少なくとも名義上は分割想像されてしまったようです。というのは、「依田家文書」として残された本陣や脇本陣の間取り概略図から推定すると、街道に面した間口は、本陣は最低でも20間、脇本陣では8〜12間はあったようですが、そのように広い間口の敷地割りが絵図では見られないからです。
  現在では、名義上の都市所有権とはかかわりなく、旧本陣小松家の間口は22〜24間がひとまとまりとなっているような外観です。おそらく花鶏が史跡に指定されたために、屋敷地の間口の外観は保たれているようです。



出典:同上 p402 (画像を編集加工) 原典は明治22年「南牧村切絵図」をもとに作成。