■水系と地形のダイナミズム■

  下の絵地図は、長野盆地を描いたグーグルマップを加工して、上空から見た場合の、善光寺平の複合扇状地としての構造を大まかに示すものです。 ピンク、黄緑、オレンジ各色で囲んだ範囲は、往古に形成された浅川の扇状地、裾花川の扇状地、犀川の扇状地の範囲を概略で表しています。
  旧筑摩郡から小田切まで、犀川は山中のV字渓谷を流れ、浸食作用と運搬作用をはたらかせます。善光寺平では、犀川の強力な堆積力によってつくられた犀川扇状地が、千曲市杭瀬下・粟佐辺りまで押し出してきています。この扇端を回り込むように、千曲川は杭瀬下・粟佐辺りでほぼ直角に折れ曲がってしまいます。これは、千曲川に比べて圧倒的に流水量と流下速度が大きい犀川の力によって、千曲川の流路が押し曲げられてしまったことを意味します。
  平常時、上流部のダムでの調節を前提しても、犀川の流水量は千曲川の10~20倍ほどになると見られます。これが、川の力の差です。

  さて現在、小田切ダムの直下で犀川河岸から流水が溢れる標高はだいたい375メートルくらいか、それよりも高く、千曲市粟佐の標高は355メートルです。標高差は約20メートル以上ということになります。古来、犀川が溢水氾濫して、溢れた水が南方向に進んだ場合の標高差は少なくとも20メートル以上ということです。これが犀川扇状地の南北方向の標高差です。平均勾配は1000分の2.5(2.5パーミル)です。
  そして、東方向を見ると、犀川の扇状地は、小田切ダムの下流の犀口(標高362メートル)を扇頂として測ると、犀川と千曲川との合流点は標高338メートルですから、標高差は24メートルになります。小田切の溢水緯線との標高差は30メートル以上となります。犀川の扇状地が形成された時代には、標高差はさらに大きかったと推定できます。犀川扇状地の東西の平均勾配は1000分の3(3パーミル)ほどとなります。
  しかも現在、松本から小田切まで巨大なダムが5つあって、これらによって犀川の流水量は大きく抑制されていますから、往古には犀川の水位と流水量ははるかに高く、したがってまた、その破壊力もきわめて大きかったはずです。
  これに対して千曲川の粟佐(標高355メートル)から合流点までの標高差は17メートル。流路の勾配はおよそ1000分の1(1パーミル)未満となります。勾配から考えると、千曲川の流水による岩石運搬力は杭瀬下・粟佐辺りでほとんど失われ、水流が運んできた石はそこでだいたいが水底に落ちてしまいます。 そのため、東福寺や道島にいたると、畑には目立つほどの石はほとんど見つかりません。肥沃で粒子が細かい砂壌土や粘土質の平坦地が形成されることになりました。
  上にあげた「勾配×流水量」の比で考えると、犀川は千曲川の50倍以上の推力というか破壊力をもつわけです。以上のことから、最善光寺平の犀川との合流点までの千曲川左岸の扇状地形は、ほとんど犀川の土砂運搬力と堆積力によって形成されたと見ることができます。
  こうして、非常にゆるい傾斜をゆっくり流れるので、長野盆地に入ると千曲川は流速(流水の推進力)非常に小さくなって、が大きく蛇行してしまいます。そのため、上流の大雨で千曲川が増水すると、松代町清野から金井山の麓の間で決壊し、越水が松代城下街まで流れ込んできました。
  松代藩は1742年の「戌の満水」の大水害を受けて、瀬直しをおこない流路を大きく改造することにしました。


姨捨の棚田地帯から見おろす千曲川。この近くまで犀川の堆積力がおよんでいた。

  ところで、東福寺には旧石器時代の遺跡や縄文時代の生活痕跡は見つかっていません。千曲川=犀川水系の破壊力を怖れて、狩猟や採集を中心として初期的な植物栽培によって食糧を得ていた時代には、人びとの生活は山間部に限られていました。ようやく弥生時代頃から、千曲川沿いの自然堤防上に集落が点々と形成され、その近くに畑や墓をつくり、その後背低地(湿地)を水田として利用していたようです。
  自然堤防とは、千曲川が氾濫したときに流路の近くにより多くの土砂を置いていったことで形成された小高い丘地形です。ところが、その外側、自然堤防の後背地には窪地、凹んだ地形が形成され、湿地帯となりました。これを後背湿地と呼びます。
  このような人類による土地利用は、篠ノ井塩崎や石川地籍から長沼辺りまで続いていました。

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