■水系と地形のダイナミズム■

  上の絵図は、18世紀半前半の東福寺小森付近の千曲川の流路と周囲の地形を推定復元したものです。下の絵図は、1750年代に松代藩がおこなった千曲川瀬直し(河道の変更工事)の前後の流路を比較するものです。瀬直し工事後の流路は、ほぼ現在まで維持されています。
  瀬直しの前の流路とはいっても、1742年の「戌の満水」の前のものなのか後のものなのかについては、わかりません。気候変動のなかで1730年代から千曲川隆起での降水量が増大していったため、増水や氾濫がしばしば発生し、そのたびに千曲川の河道は変動したものとみられます。
  戌の満水を含めて、1730年代から頻発したと見られる増水・氾濫が繰り返される過程で、上掲のような河道が形成され、小森や東福寺が深刻な水害を被る危険性が増大したようです。石土手は、小森の河川敷で急角度で蛇行する千曲川の流れを補強するのもので、妻女山北麓・清野方面に円滑に水を流すための治水設備でした。
  私の見立てでは、現在まで遺構が残っている石土手は、小森村に最も近く、危険が最も大きな河道に施した石組土手だったのではないでしょうか。現在残っている石組の規模では、とうてい千曲川の流水量の全体を制御できる規模ではありません。この遺構の何倍もの規模の治水設備が必要だったはずです。
  ともあれ、1750年頃には水害の危険性があまりに大きくなったので、松代藩は千曲川の河道改造をやらなければならないと判断するにいたりました。河道変更によって、松代の城下町の浸水を防ぐだけでなく、川中島に広大な水田地帯をつくりだすことができる――水田開拓の進展によって藩の年貢収益が大幅に増大する――と展望したのでしょう。費用と効果は釣り合うと見たはずです。

  この絵図は、千曲川河道(流路)の往古と現在を比較するものです。1750年代の河道変更(瀬直し)工事によって、小森の石土手はもはや必要なくなり、新たな流路の妨げになる限りで解体されたと見られます。流路の滞留・停滞は、流路の不安定化や氾濫を招く要因となるからです。 つまり、新たな河道に残る石組は流れを妨げない程度に解体され、新たな河道からは外れて岸辺となった部分は手がつけられずにそのまま残されたのです。
  流路のなかでの作業は相当に危険ですから、石組堤防跡は完全には除去されなかったようです。その石組残骸はやがて、千曲川の流水によってバラバラに崩壊して、この250年以上の間に浅瀬を少しずつ押し流されて、数メートル下流にうず高く積もり、現在のような落差のある瀬滝を形成することになったようです。浅瀬で流水の推力・運搬力が非常に弱かったため、残骸が今でも残っていると見られます。
  それが、往古の河道の痕跡をわずかに留めているのでしょう。他方で、岸部となって解体されなかった部分は今も残っていて、それが「小森の石土手」遺構として保存されているのです。

  1750年頃の千曲川河道の改造工事よりも以前は、妻女山という山はなく、赤坂山と呼ばれれいました。そして中沢村は、赤坂と呼ばれた千曲川北岸まで菱がっていて、道島は中沢村内の地籍だったのです。赤坂山の麓と中沢村の南端を合わせて赤坂という地名だったのです。
  したがって、戦国時代には妻女山という地名はなく、『甲陽軍鑑』に上杉軍が陣取った赤坂山が登場しているのは、時代考証からするとありえないことで、つまりはありえないものを捏造したのです。『甲陽軍鑑』に描かれた川中島合戦のは実相とは程遠いデタラメということになります。下に参考絵地図を掲載します。

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