「福島宿と布野の渡し」の絵図
上の絵図は、江戸時代に福島宿と布野の渡しの概略を描いた絵図です。印象を描いたもので、地理的な位置関係は必ずしも正確ではありません。それでも、旅人に北国街道松代道の福島宿と布野の渡しの位置関係や顕著な目印を案内する目的で描かれたもののようです。当時の地形がわかります。
この絵図から次のような事柄が読み取れます。
福島宿の北西で千曲川が2本に分流して中洲が形成されていること。布野の渡し舟は、2本の流れのうち川幅が広い本流を漕ぎ渡るものであったこと。もう一方の幅が狭い枝流は水深が浅く、普段は徒歩で渡渉することができたこと。布野の渡し場のすぐ北側には村山の集落があったこと。
ところで、絵図に書いてある説明によると、本流でも水深が浅いときには綱を両岸に渡して、それを伝って歩いて渡ることができたようです。いつも船が出たわけではなく、水量が多い場合に許可を受けて舟を出して渡ったようです。旅人や住民が西岸から対岸に渡る場合には、本流を徒歩または船で渡って中洲を歩き、枝流を渡渉して福島宿側にたどり着いたということになります。
地形について見ると、千曲川の両岸には「土手」と呼ばれるほどの自然堤防があったようです。布野や村山ならびに福島の集落は土手によってある程度は増水から守られていたのです。とくに村山集落は土手の高道によって囲まれた輪中だったそうです。