神代村の北国街道松代道と飯山街道
上の絵図は、江戸時代の神代村(神代宿)界隈の北国街道松代道と飯山街道を描いたものです。周囲や近隣の道は、『豊野町誌』などの記事、私自身の豊野町の探索にもとづいて推定・想像したものです。
神代(豊野)の旧街道などの道路事情について、現在の豊野の地理との大きな違いをここで指摘しておきます。それは、今はしなの鉄道となっている旧国鉄の線路が建設されて、松代道が分断され、豊野駅を中心に商店街と県道などの道路が建設されたことです。
また、昭和期には古い街並みや集落の家並みを改造して住宅地や農耕地を開発したことで、家並みや道路の形は変わりました、昭和中期以降は、自動車交通に適合した道路網を建設したことで、豊野近辺の道路事情は江戸時代とは全面的に変わりました。
それでも観音堂から下の松代道や飯山街道の道筋はだいたい往時の形をとどめています。石村堰用水路も部分的に暗渠になったり、コンクリートの護岸になっても、ほぼ昔の水路が残されています。そういうものを手がかりに、往時の道路の道筋を推定することができます。
しかし、形が大きく変わったところもあります。ひとつ目は、横町通りと立町通りの合流地の南端の角地には石垣造りの桝形があったと見られますが、それがなくなっています。明治維新後に全国の街道では通行の妨げになる桝形は撤去されました。
ふたつ目としては、幕藩体制は解体され飯山藩の穀留番所は廃止され、本陣や脇本陣、問屋など街道宿場の役職も廃止されました。本陣や脇本陣、問屋の建物は住民の資産でしたから、屋敷地や建物の多くは昭和中期頃まで残されていましたが、高度経済成長が本格的に始まると、遺産相続にともなって敷地が子孫に分割されたりして、住宅地に変貌し、広壮な古民家が解体されたたところもあります。
また、ことに円徳寺には多くの塔頭支院があって参道脇に並んでいたので、寺域・門前は18世紀前葉には寺町とよばれていました。しかし、1758年の神代宿の大火で打撃を受けました。明治維新では寺院や神社の領地・保有地は政府に没収され、境内が狭くなったうえに、その経営基盤は失われました。こうして寺町の面影は失われ、明治まで残っていたのは正伝寺と正福寺だけで、この2つの寺も明治9年の火災の後、別の村に移転したそうです。