石田山長秀院の縁起来歴にもまた深い謎がつきまとっています。寺伝では、創建の発端は、15世紀中葉に下野足利の寺から来た密教修験僧が粟野神社東麓に小堂を造ったことだそうです。16世紀前半に、お堂跡に長秀院(の前身の寺院)が再興開山されたのだとか。 ところが、私の推測では、長秀院は宇山にあった聖林寺の塔頭支院、長秀寺の衣鉢を受け継ぐものではないかと見られます。 ◆曹洞宗によって再興された古刹か◆ |
|
▲丘陵斜面の段郭のような境内に並ぶ堂宇はあたかも城砦のごとき構えだ ▲六地蔵堂の背後の六地蔵。寺域参道沿いには数多くの石仏・石塔が立っている |
|
▲飯山街道から北にのぼる小径の西脇にある古い石垣が長秀院の目印 ▲茂吉の先は三念沢で、対岸が殿屋敷と呼ばれる下村氏の屋敷跡 ▲石垣の横から鬱蒼たる樹林におおわれた参道石段をのぼる ▲この一見観音堂に見える小堂は何を祀っているのか ▲観音堂の手前には六地蔵が並ぶ蓋殿。その背後は如意輪観音か。 ▲北に向かう石畳参道。その脇にも六地蔵堂がある。 ▲土台も低く小ぶりだが、実に端正で躍動的な結構の鐘楼 ▲寄棟で質実な本堂: 扁額には長秀禅院という揮毫の荘厳してある ▲本堂東脇に置かれた庫裏は、入母屋造りで重厚 ▲大きな寄棟屋根の天辺に小さな大棟。鯱が向かい合う。 ▲背後の山腹墓苑から境内を見渡す |
■長沼とは深い結びつき■ 長秀院の寺伝における由緒来歴の空白部分を私の想像で補うとこうなります。
まず長秀。修験僧だということは、法印という職分名からわかります。彼が属していた下野小俣村にある仏手山金剛押院鶏足寺は、最初はもっぱら天台密教の修験拠点だったようです。
長沼津野村の玅笑寺は、前身が天台または真言の密教霊場だったと見られますが、衰微したところに鎌倉中期の禅宗による荒廃した古刹の復興運動によって再興された寺院だと見られます。室町後期から戦国時代にかけて、曹洞宗の僧たちによる戦乱で荒廃した古刹の復興再建が盛んになります。
|
▲寺の背後に迫る丘陵にはリンゴ畑。上の丘に石村城があった。 ▲寺域裏の松並木の下を往く細い山道。本堂の屋根が見える。 ▲背後の山腹丘陵のリンゴ園の下に境内がある |
■山寺の趣き■ 長秀院は標高460~480メートルくらいの丘陵にあって、境内東脇を三念沢の渓流が流れています。その源流部の尾根高台の上に石村城がありました。
|
| 前の記事に戻る || 次の記事に進む(取材中・未公開) |