■茅刈りとカヤト■
ここでは、上松町の寝覚や吉野などで住民から聞いた話をもとに、江戸時代から1960年代まで続いていた懐かしい木曾の山村風景や暮らしぶりを描きます。
1960年代まで木曾の農家にはたいてい木曾馬が飼育されていました。その頃の水田は、不規則な形の――10アールには届かない――小さな面積の棚田でした。現在のきれいな長方形に整形され大きな面積の――何十アールもあるような――圃場ではありませんでした。
稲作農家は、そういう狭い棚田を耕す農耕馬として利用し、家族の一員のように大切に飼い、世話をしていました。馬は、稲束や俵、薪などの荷駄の運搬にも役立ちました。
木曾馬の飼は野草で、とくにイネ科の植物が好物でした。馬はタンパク質を蓄えている萩やレンゲなど、マメ科の草も喜んで食べました。晩秋には集落の人びとは、冬季の木曽馬の餌として山林や草地に行って「茅刈り」をおこないました。乾燥させたり、積み上げて発酵させて、馬の餌にしました。
芦や葦、萱、荻などのイネ科の草を茅と呼びますが、そういう草を中心に刈り集めて冬場の飼料にしたのです。それはまた、各農家が山に保有している山林の下草がりともなっていました。木曾馬の飼育と農耕利用、山林の管理が一体化して循環し、木曾の山野の生態系は美しい景観をなしていました。
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ところで、木曾馬もほかの馬と同じように、夏場の暑さが苦手でした。そこで、木曾馬にとっては農閑期となる夏には、たとえば風越山とか糸瀬山などの山頂部や高原の草地に彼らを放牧しました。
山頂部や尾根筋の草地は、農民たちの共同の放牧地として利用されたのです。だから、山岳の頂や尾根筋のかなりの部分は、現在のように藪のような森林にはなっていなくて、見通しのきく美しい草原になっていました。
そういう山の草原を木曾の人びとは「茅処」とよんで大事にしていました。
夏場には、木曾の山々の山頂や尾根の草原に木曾馬が放牧されていて、そこにときおり涼風が吹きわたり、風の通り道の草原が波のように揺れる風景があったのです。
■木曾の古道と木曾馬■
かつては、木曾川沿いや麓の村々から、カヤトに木曾馬を夏に連れていき、秋に連れて帰るために、人びとは岐蘇路や木曾古道を頻繁に利用していました。
縄文時代ないし弥生時代から木曾の人びとが木曾馬とともに生活していたとすると、山々の頂やそれを結ぶ尾根は馬のためのカヤトで開けた草原になっていたのかもしれません。そうすると、古代の街道の建設は見通しのよいカヤトの尾根を開削する作業だったので、現在私たちが想定しているよりも、ずっと合理的で効率的で、安全な工事だったのかもしれません。
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