出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊)

◆軍事施設ではなく祭祀と政治の場だったか◆


  木曾地方の宿場街の近隣には必ずといっていいほど「愛宕山」と呼ばれる山や尾根があります。そして例外なく、そこには城跡または神社遺構があります。城砦と神社は一体化していたと見られます。

  ところで、「山城」という歴史的カテゴリーを生み出したのは、江戸時代後期の軍学者で、本来は文献究中心の儒学者で戦史や軍事史の専門家ではありません。ことに信州に関しては、多分に内容が怪しいカテゴリーです。
  どういう点が怪しいかというと、山麓や谷間の平坦地にある城館を根小屋と呼び、これに対応させて、険しい山頂部や尾根峰にある砦跡を山城と呼ぶのですが、標高差が50メートル以上もあると、平坦地や谷間の城館との行き来が難しいので、ほとんどまったく軍事的防衛の効果がないからです。
  信州の山岳部、山間部の険しい地形を考えると、山麓の城館と峰上の「山城」との標高差や往来の道筋の峻険さが大きい場合には、その山城は軍事的防衛というよりも、もっぱら重厚的な祭祀と融合した領主による統治に県づけをした理、民衆から同意を獲得したりするための場だったと見るべきなのです。

  もちろん、見張り台や狼煙台としての役割はあったでしょう。しかし、見通しの良さは、むしろ麓の水田や畑作地の作付けや作柄を視覚的ン確認して、年貢高を領主が提示して、談合し農民たちが納得する祭事の場として機能したと見る方が自然です。

  もし敵側の軍勢に急襲されて山麓や平坦地の城館を取り囲まれてしまえば、武装して標高差が大きい難路ばかりの道を通って城館の支援に駆け付けるために要する時間がかかりすぎます。
  しかも、麓に蝟集する敵軍からは丸見えというか、きわめて察知されやすいのです。山は下りの方が疲労しやすいので、山城から下る兵にとっても消耗は大きく、戦闘のための体力は残らないでしょう。登山用具を背負って登山をした経験がある人には、この点は理解できるでしょう。
  具体的な条件で力学(兵站論)的に検証してみましょう。愛宕山の尾根峰上の城砦跡と十王沢河畔の山裾との水平距離は500メートルで、標高差は180メートルです。つまり360パーミルの急斜面です。通常の登山道なら、道のりは2キロメートル前後になります。
  武装した兵団が天神山城館に到達するまでに1.5~2時間くらいは擁します。となると、戦闘には間に合わず、しかも麓で敵兵団に向かい撃たれてしまいます。軍事的にはほとんど無意味です。
  上松の愛宕山の城砦はこのような理由で、見張りや狼煙の拠点以上に軍事的役割を期待した城砦ではなかったといえます。


本町から眺めた愛宕山