宿場街の防火対策としての高塀
■高塀(防火壁)と広小路■ |
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江戸城の直下の街には、たとえば上野広小路とか両国広小路とか、いたるところに広小路とよばれる、広場のように幅が広い道路が設けられていました。17世紀に繰り返した大火から学んだ幕府が、火災旋風による大きな火の粉の飛散による延焼を防ぐため、17世紀末から18世紀前半にかけて市街のなかに、あるいは墨田川河畔に防火帯として広小路を建設したのです。 広小路の用地を確保するため、それまであった家並みは強制的に立ち退かせ(移転させ)ました。民間では富裕な商家が屋根を瓦葺きにし、棟の両袖に「うだつ」を設けて、火の粉による類焼を避けようとしました。それを範例として、各地方の大きな街には広小路と呼ばれる防火帯を兼ねた道がつくられるようになりました。 中山道の各宿場でも、何度かの大火災の経験から学んで、上町や中町、下町などと言う町組(街区)の境界に広小路を設けましたが、さらに広小路の片側に厚みが60センチメートルくらい、高さ4~5メートル以上、奥行き18~30メートルもある巨大な土壁の防火壁をつくりました。それは高塀と呼ばれました。 |
広小路と高塀の併用は、中山道には杉板葺き屋根が多かったからでしょう。その当時は、二階建ての町家でも厨子二階という二階の丈低い造りが多かったので、広小路と5メートル近くの土壁あれば、炎や火の粉の飛び散りを相当程度防ぐことができたようです。 江戸時代後期になると、裕福な商家は通り沿いの棟両端に防火装置を兼ねた「うだつ」を施すようになりますが、高塀は街区全体を火災から守る「うだつ」と喩えることができるでしょう。 19世紀になって各地で石灰岩を採掘し消石灰を精製するようになると、高塀に漆喰をほどこして、さらに耐火性能、防水性能を高めるようになりました。 さらに、高塀の中ほどから下に腰壁として海鼠(なまこ)を施して、見た目も壮麗にしていきました。上掲の絵は高塀の腰壁にはを施してあります。海鼠しかし、明治維新の後、桝形とともに高塀も解体撤去してしまったため、明治以降には町全体が焼けてしまう火災が各宿場で発生したようです。 |