上久保の一里塚をめぐる地形
上久保付近の地形絵図
上掲の絵図は、上久保の一里塚の近辺の地形を描いたものです。下掲の絵図は、この一里塚とこの場所の中山道がどのようにしてつくられたのかを、現在の遺構地形から推定したものです。
上の絵図に示したように、上久保一里塚の南側には比較的に平坦で緩やかな谷間があります。北側には千沢の渓谷があります。一里塚があるのは、南木曽岳主稜線から西に張り出した尾根のひとつです。
北の三留野方面からやって来た中山道は、千沢の谷間を渡ると、上久保の尾根の先端近くを回り込んで南に進みます。建設時には尾根の先端近くを切通して街道を開削し、そのときに彫り上げた土砂を、街道の両傍らに積み上げて一里塚の小山をつくったと見られます。
幕府の命令で建設した街道の一里塚は、江戸中期には維持管理の手当てを施されることがなくなったようです。幕末までには多くの一里塚が荒廃してしまいました。さらに明治政府による新街道制度の整備によって、平坦地や都市や農村の集落のなかのものはほとんど解体撤去されたそうです。
今でも往時の形状をとどめているのは、山間部の僻地にある一里塚だけで、しかも両側とも残されているのは、きわめてまれです。上久保の一里塚は非常に貴重な史跡文化財です。