城山妻籠城の総堀



戦国時代の妻籠城の総堀を復元した想像図

  中山道脇に立つ蛇石の説明板には、「中世の中山道は、ここから沢沿いに上っていた。元禄16年(1703年)に道の付け替え工事が行われて、妻籠城総堀を通る現在の道となった」と書かれています。
  これはどういうことかというと、戦国時代には城山の東麓は、妻籠城の縄張りで総堀という防御設備が構築されていたので、中山道の前身(古中山道)はそこを通ることはできなかったということです。
  その頃、城山東麓の左近右屋敷辺りから北には、自然地形を利用して深い空堀が施されていて、深い窪地になっていたと見られます。妻籠城の東側の外縁に堀がつくられていたのです。近隣の沢も引き込んであって、大雨の後や雪解け季には湿地帯となったかもしれません。これによって、たとえ南木曽岳主稜線から西に張り出した尾根 を敵軍が占領したとしても、総堀という防御投資があるために、城山に攻め上ることはきわめて困難となったはずです。しかも、尾根の両脇は削られて痩せ尾根のようになっていて、1列でしか行軍できなかったようです。
  左近右屋敷の横や小尾根上――そこは横矢ないし矢倉となっていた――から射撃されると、殲滅されてしまいます。
  古中山道は、このような危険な場所を避け、妻籠城の縄張りを迂回するために、蛇石が沢の渓谷沿いに東側の尾根を越えていくことになっていたと見られます。
  関ケ原の戦いの後に徳川家の指揮下で中山道が開削されたときには、妻籠城は廃され破却されたので、総堀を埋め立てて土盛りを施してその上に道を建設し、現在遺構が残っている道筋にしたと見られます。