三留野愛宕山城を探る



出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊)


▲三留野東山砦の西麓から愛宕山を眺める。山頂に城跡がある。


▲中山道与川道から愛宕山南の尾根を見上げる。左奥が山頂。

  上の絵図は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻からの引用です。下の縄張り地図も同じ出典です。
  愛宕山(標高681m)の尾根は峰を中心として南西方向から北東側に主稜線が延びていて、山頂から鞍部を挟んで東側にも尾根を張り出し、その先端に尾根峰が盛り上がっています。この尾根峰に南木曽岳の尾根が連絡して、与川道の峠鞍部を形成しています。
  以上の三方向の尾根筋は比較的に緩やかですが、木曾川に面する山頂西側は崖ともいうべきほどに急傾斜をなしています。つまり、愛宕山は木曾川に張り出した小さな独立峰をなしています。
  独立峰なので、四方に見通しが効くのですが、木曾川対岸(西方)は、標高がはるかに高い伊勢山(標高1373m)の稜線によって視界が遮られています。しかし、激流の木曾川を渡渉して攻撃することは物理的に不可能なので、理想的な視界が与えられています。また木曾川河畔の中山道は険阻な懸崖の道なので、北側からの攻撃に備える必要はなさそうです。
  愛宕山の南方に中山道と三留野宿、さらにその南方に城山妻籠城をの遠望できます。したがって、監視や攻撃の方向は三留野ということになります。
  そうすると、この城砦が築かれたのは、木曾北部を支配していた藤原氏が、三留野領を統治していた真壁氏や遠山氏を対抗相手と見なしてのことだと見られます。このような軍事的対抗を想定すると、築城は14世紀後半〜15世紀前半と考えられます。木曾氏が木曾全域を勢力下に置いた戦国時代末期には、愛宕山はそれほど大きな軍事的戦略的な役割は割り当てられなくなったようです。
  東南西の三方向に開けた視界から、宮坂氏は愛宕城はその頃にはもっぱら狼煙台として活用されたと見なしています。