三留野東山砦跡を探る
急傾斜を流れ下る梨子沢と東山: 南木曽岳の稜線支脈の小さな尾根であもあり、尾根先端の小さな独立峰であもある
出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻
上の絵図は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻からの引用です。下の縄張り地図も同じ出典です。
三留野東山砦は、鎌倉中期〜後期に在地郷士による所領そして三留野村の開拓建設時に構築が始まったものと見られます。室町後期から木曾谷北部に所領拠点を確保した藤原氏(のちの木曾氏)の南下侵攻が進み、やがて東山砦は木曾氏一族の居城となったようです。
『長野県町村誌』によると、史料に、木曾一族の左京大輔家方がここに居館を築き、子息の左京之亮家範を常駐させたことが記されているとか。これらの人物についてはほとんどわかりません。
妻籠まで木曾氏の勢力下に収まった頃合いには、馬籠峠の南方に対する軍事的防衛の拠点は城山妻籠城となったと見られるので、かつて三留野の攻略拠点だった三留野愛宕山城の軍事的役割(位置づけ、重要性)はかなり低下したものと見られます。
『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』の著者、宮坂氏は愛宕城はもっぱら「狼煙台」として利用されたものと解釈しています。
そうすると、愛宕山城よりもさらに築城年代が古い東山砦はさらに軽い格付けになったのかもしれません。しかしながら私は、東山砦は三留野集落の開拓草創期に築かれた《政としての祭事》――統治のための儀式――の場だと見ています。東山の遺構は単に軍事的役割を見る観点だけによっては理解できないだろうと考えます。
信州の山城は、他地域の武将領主の侵攻にさいして集落住民とともに立て籠もる場というよりも、平時において領主が祭事の場を借りて年貢に関する年ごとの取り決めを協約する政治の場ではないかと考えます。寺院・神社が一体化し、その上に砦の平場がある遺構は、そういう統治の文化――軍事機能よりも――の痕跡ではないかということです。
しかし、室町後期に木曾家の三留野家範がここに居館を構えて、集落建設と農耕地開拓を進めた時代には、東山砦は、後の等覚寺境内にあった家範の居館を背後から防御する砦のひとつだったと考えられます。