十二兼集落の北端近く、八人石沢を見おろす崖の縁は「はなと」と呼ばれていたそうです。この場所にある住戸の屋号も「花戸」です。 「はな」とは端とか先端を意味し、つまり高台の端ということです。『中山道分間延絵図』では、ここに鳥居が描かれています。往古から神聖な場所となっていたのです。今は、屋号「花戸」の脇、崖縁には墓地があり、道を挟んで東側には石仏群が並び二十三夜塔が置かれています。


◆崖縁の石仏群と二十三夜塔を探る◆



十二兼の高台の北端「はなと」は、野尻城山を仰ぎ見る位置にある



▲高台北端の崖縁には「花戸」の墓地がある


▲往古、この尾根峰の上に熊野権現の社が祀られていた


▲崖縁の「花戸」家の前から野尻城山を眺める。


▲中山道から石仏と二十三夜塔にのぼる石段


▲崖縁の岩の上に並ぶ石仏群(馬頭観音)


▲様々な形の石仏たち。ほとんどは馬頭観音像。


▲手前は聖観音像で、その奥は念仏塔


▲段丘崖の下(裏側)から石仏群を見上げる


▲石仏群より少し奥にある自然石の二十三夜塔


▲石仏群から尾根崖縁を進む細道。古中山道の跡か。

 この細道の左側の藪の下は崖で、谷底を八人石沢が流れている。この先で谷底に下る経路があるという。降雨後に沢の水位が高くなったさいには、旅人はこの細道を通って沢を渡ったらしい。

■「はなと」は聖なる場所か■

  高台の一番北に位置するお宅は屋号が「花戸」で、そこの当主のお爺さんが精密な木工水車模型を製作しています。お爺さんの説明では、「花戸」とは高台の端(先端)を意味するそうです。
  ここは十二兼の高台の北端なので、集落の北にそびえる野尻城山を一番間近に仰ぎ見ることができる場所です。城山の形は、熊野古道の「奥駈道おくがけみち」――最も峻険な修行の道――とよく似ています。
  はるか昔、ここに熊野の信仰にもとづく密教修験の霊場を開いた山伏たちは、城山から袖山に連なる尾根を山岳修行の場所と見なしたのでしょう。そんな起伏の激しい稜線を望むこの場所が、神聖な場として位置づけられていたことは明らかです。
  花戸の家の隣の崖縁は、墓地になっています。『中山道分間延絵図』によると、崖縁の花戸には鳥居が描かれていて、江戸時代から祠や石塔、墓などがあったことがわかります。そういう聖域は中山道を挟んで向かい側(東側)の尾根裾にも続いていました。今そこに、石仏群が置かれているのは、聖なる場所としてはごく自然なことです。


舟形の石に整え浮き彫りが施された石仏


丸い自然石に文字だ刻まれた石仏

  江戸時代からここに石仏がいくつかあったのでしょうが、現在ここにあるように多くの石仏――20体以上、しかもそのほとんど馬頭観音――が集められたのは、昭和中期だと見られます。十二兼村内の道のりおよそ2キロメートルにわたって旧中山道の場所を少し移して整備し、拡幅・舗装したさいに、街道脇に1丁(108メートル)ごとに祀られていた馬頭観音像の大半をここに集めたようです。
  江戸時代後期からその頃まで、この村の各戸は、それぞれに街道や集落の決められた場所を担当して石仏を奉納していました。年月を経て石仏が劣化して傷むと、各戸は石工に依頼して新しい石仏を彫らせて奉納安置したのです。その風習は、街道を移設・拡幅整備した頃になくなりました。


「二臂形」の聖観音像は慈悲に満ちた相貌

■石仏群の背後は棚田■

  石仏群と二十三夜塔は緩やかな舌状の尾根丘陵の北端の崖縁に位置しています。この崖斜面は、八人石沢の浸食作用で形成されたものです。
  では、石仏群と二十三夜塔の背後の地形はい小さな扇状地で、緩やかな斜面に棚田が広がっています。水田面積の合計は2反(2000平米)近くありそうです。下のグーグルマップ航空写真を参照してください。
  背後の谷間から沢が流れ下ってきて、棚田を潤しているのです。


弧の擁壁の上には棚田が続いている

  石仏群脇から崖縁をのぼっていく細道があります。これは古い中山道の跡ではないかと思われます。
  往古、この細道を40メートルほど東に歩いて谷底に降りたところで八人石沢を渡って、木曾川河畔に出て、そこから野尻に向かっていたようです。雨の後には沢が増水するので、この崖縁の細道を通るしかなかったのです。


二十三夜塔の脇から街道を見おろす


尾根の崖縁を山腹に向かう細道

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