不思議な石像4基の謎を探る


原野の石仏群のなかで右端に並ぶ4基の立像


4基とも立像で、古代中国風の帽子をかぶり、ローブ風の裾が長い胴衣をまとい、広袖の両手を結んでいる。笏は持っていない。


原野八幡宮に保存されてきた木製神像2体。鎌倉初期~中期の作で、木曽町の文化財に指定。出典:『日義村誌』(歴史編上

■古代中国の信仰の影響を受けた神像か■

  原野の無佐沢川の畔の草地広場に石仏群が並んでいますが、その列なかで右端に置かれた4基の石像は、じつに不思議な形状です。

  最初に見たときは仏像だと思っていたのですが、これらの石像は幅広の袖に包まれた両手を結んでいて、合掌したり印を結んでいるわけではないので、どうやら仏像(如来像や菩薩像、仏教の守護神)ではないようです。
  頭に帽子のようなものをかぶっているようなので、十王像かと思いましたが、あの世の入り口で死者を裁く者として笏を携えていないので違うようです。十王像は坐像だけしか見たことがありません。
  それにしても、石像は相当に古く劣化摩耗が進んでいて、細部にいたるまで正確に観察できません。

  そこで、手がかりを得ようとこの辺りの地形を観察すると、無佐沢川河畔にあって古くから特別な場所(祈りの場)だったようで、ここから八幡宮まで一続きの特殊な空間をなしているような印象を受けます。
  『日義村誌』(歴史編上)によると、原野八幡宮には鎌倉初期から中期の作と見られる木製の神像2体が伝えられ保存されてきたようです。2体の神像は木曽町の文化財に指定されています。
  同書の口絵の写真図版を見ると、不思議な石像群とじつによく似ています。おそらく石像は、これらの神像をモデルにして刻まれたものと推定できます。図版を素材にして木像を観察してみました。
  2体ともに服装は、平安時代の上級貴族の正装、衣冠束帯に近似しています。そして、烏帽子のような被り物をしています。しかし、むしろ中国古代の道教の神々や神仙の装束に近い形状だと思われます。
  つまり、道士の服装である道袍(道服)をまとい、冠巾をかぶっていると見るべきかもしれません。いずれにせよ、平安時代から鎌倉中期頃までに図像化(イメイジ)されたもので、古代中国から伝来した姿そのままのというよりも、それなりに「国風化(和風化)」した姿態です。神仏習合の格式もとで仏像とも神像ともいえるものです。
  おそらく遣唐使の末期あるいは、遣唐使制度がなくなり、平安時代中後期にむしろ経済的・文化的な貿易をめざした日宋貿易となってから日本に伝来した文物の影響を受けて、信仰対象としてイメイジされたものではないでしょうか。
  たとえば、平安後期に仏教と道教などが混淆した中国の信仰が日本に伝来して、やがて鎌倉・室町時代を経て日本独特の庚申信仰・風習が形成されていきました。八幡宮の立像は、青面金剛像よりもずっと古い時代に――仏教思想と老荘思想が混じり合って――イメイジされた神像かもしれません。
  平安後期、この一帯では有力豪族、中原兼遠が勢力を誇っていて、京洛の有力貴族とも結びついていたので、日宋貿易による文物が到来したことも考えられるので、このような神像を尊崇する信仰が興ったのかもしれません。