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▲木祖村小木曾田ノ上近くの木曾川(笹川) 上流を望む
▲笹川下流の様子
▲田ノ上の集落 観音堂の下を通る道路
▲観音堂の背後は段丘崖となっている
▲道路からのぼる石段参道
道路を拡幅整備するさいに境内の南端を削って切通しにしてしまったらしい。
▲初夏の陽を浴びる観音堂
▲観音堂の棟側の様子 「そり」と「むくり」が絶妙のバランス
▲観音堂の正面(妻入側) 肩葺きの向拝が破風のように突き出している。
▲草芝に覆われた観音堂の境内
▲境内の端に並ぶ石標。お堂の背後は崖。桜並木で縁取り。 |
藪原宿から県道26号を木曾川に沿って北上すると、小木曾で川の分岐点にさしかかります。ここで味噌川と笹川が合流して木曾川となるようです。田ノ上観音堂をめざす私は、笹川に沿ってさらに北に進みました。
【笹川の流れを緩和する堰】
木祖村藪原から県道26号を北に3.5キロメートル余り走ると、笹川に架かる深瀬戸の橋があります。これを東に渡って、味噌川ダム・奥木曾湖に向かってさらに1キロメートルほど北に行くと、小木曾田ノ上の集落にいたります。集落の入口近く、道路沿いに西側に切れ落ちる段丘崖の縁に観音堂があります。
この地区の言い伝えでは・・・
その昔、飛騨の高山から修験僧が観音像を背負って江戸へ持っていくために、野麦峠・境峠を越えて田ノ上に到着し、そこに良い丘があるのでそこへ下し、一休みしました。出発するためふたたび観音像を背負おうとすると、仏像が急にとても重くなり、根が生えたようで動かすことができなくなりました。修験者は業を煮やして、仏像を突き転がし、あきらめて去ったそうです。
つまり、観音様は、田ノ上の丘が気に入ってそこへ鎮座したかったのだと伝えられています。
やがて、村人が堂を建てて、お祀りしたのが今の観音堂です。
昔はお堂は西向きであったそうですが、ある時殿様が観世音下の橋を通るたびに落馬してしまうので、東向きに建て替え東向きに安置すると落馬することがなくなったのだとか(木祖村公民館発行 『木祖村物語』による)。
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【軒下の造り込み】
ところで、お堂内に残っている棟札によると、安永年間(1776年)にお堂を建て替えたと記されているそうです。木曾路に今でも残る観音堂では一番古いものだか。
ということは、それ以前からここに観音堂があったということです。
お堂の建築様式は寄棟の阿弥陀堂づくりで、明白な「そり」と「むくり」があることから、安永期の再建が以前の様式を踏襲したとするなら、私は遅くとも室町時代に創建されたのではないかと想像しています。造りは妻入で、茅葺の向拝が突き出ています。
さて、観音堂の境内には枝垂桜の老巨木があります。エドヒガンザクラで枝垂れたものだそうです。一名イトザクラともいいます。樹高は約17mで、幹周囲4.2メートル、枝張り横幅約17メートル。
村内最大のサクラの巨木で、樹齢は数百年の古木と推定されていて、春4月末〜5月上旬に満開となる桜は、かたわらの茅葺造りのお堂と相まって、見ものだとか。村では1977年7月1日に木祖村天然記念物として指定しました。
【樹齢数百年の桜の巨樹】
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