神明砦の探索



出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊)

  上の絵図は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻からの引用です。下の縄張り地図も同じ出典です。
  神明砦は、妻籠宿の南側で蘭川の流れが西向きから北向きに転じる地点の西にある細い尾根上に位置しています。現在、砦跡の直下には、神明集落があります。そこには神明橋から尾根丘にのぼっていく小径があって、これが江戸時代の中山道です。
  この砦の記録は、現存の史料にはないようですが、遺構が残っているので、戦国時代まで現存した城砦です。室町中期〜後期にかけて、神明砦は美濃東部を支配した遠山氏が馬籠峠の北端を守るために築いたものと見られています。
  ところが16世紀半ば〜後半には、妻籠までの木曾谷は木曾氏の勢力下に入ったことから、遠山氏支配の頃とは逆に、妻籠を南からの侵攻に対して守る砦へと役割を変えたようです。そうなると、城山の妻籠城と連携した出城のような位置づけになったのかもしれません。
  ということになると、1584年の小牧・長久手の戦いでも妻籠城の出城として機能したと考えられます。この戦いで徳川方から豊臣方に寝返った木曾氏の最有力の家臣として山村氏が妻籠城に籠城して、徳川勢の攻囲に対して持ちこたえたとか。しかし、やがて徳川家の覇権が確立すると、妻籠城とともに神明砦は破棄されたそうです。
  下掲の神明砦の縄張り図をざっと見ると、北東端にある段郭群は蘭川下流方面からの攻撃に備えたもののようです。とはいえ、男垂川に沿って南から馬籠峠を北に進軍する敵にも対応できるような防備となっているとも見えます。


神明砦からは、戦国時代の古中山道沿い――馬籠峠北端における――の動きを監視することができた。