妻籠宿の桝形 復元図
上の絵図は、妻籠宿の桝形について往時の姿を復元した想像図です。そして、下の写真は現在の桝形跡の様子です。桝形とは、クランク状に2回直角に曲がらないと街道宿場の出入りができないような構築物のことです。
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明治維新の後、明治政府は新街道に関する法令を制定し、江戸時代の街道を改造して、荷車や馬車などの車両が通行できるようにしました――これが「国道制度」の端緒です。そのさい、街道路面の起伏を除去して均して平坦な路面にしたり、石垣などを解体して桝形を撤去するように命じました。
妻籠には、江戸時代の初期には、上町と寺下との境界に宿場南端の桝形がありました。やがて、宿場街は南に拡大して寺下と尾又の街区が加わりました。今残されている桝形跡は、したがって、上町と寺下との境目にあります。
江戸時代には――松代屋など並ぶ――家並みの前の街道まで、光徳寺の背後から続く尾根が迫っていました。この尾根地形を利用して街道を西側に迂回させて、尾根下に石垣を施して桝形を構築しました。現在の舗装道路は、明治時代以降に車両を通行できるように、尾根を開削して建設したもので、昭和中期に舗装されたと見られます。尾根の切り崩しと道路整備とともに排水路・下水路を整備して、水害に対して安全な街並みに造り変えました。
大雨などの降水時には、尾根の上から流れ落ちる水が、窪んだ地形この一帯に水を溢れさせて、家屋の浸水などひどい難儀をもたらしたと伝えられています。
江戸時代には、石灯籠(常夜灯)と説明板の辺りまで緩やかな尾根が西(左)から延びてきていた。
出典:南木曽町博物館刊『南木曽の歴史 歴史資料館展示図録』
上の絵図は、南木曽町博物館が刊行した『南木曽の歴史 歴史資料館展示図録』p29から引用したものです。
1686年から現在までの街並み姿の成長・変遷を――幕府や尾張藩への報告書や「宿大概帳」など――残存史料にもとづいて図式化したものです。これらの宿駅街の家数や人口などの規模に関する記録は、課税の基本台帳になっていました。
私がここで推定再現した桝形と寺下の姿に最も近いものは、この図の一番上のもの、つまり貞享3年(1686年)の街並みの姿です。そこでは、桝形の南側の寺下の集落(街区)はすでに開発と建設が始まっていたようです。とはいえ、桝形の西側には3軒ほどの家しかなく、復元図に近い状態です。
してみると、私の復元図は江戸時代の最初期、1600年頃――戦国時代の面影を色濃く残している時期――の姿に近いのではないかと思われます。