妻籠宿の桝形跡の東側の尾根高台の上に、一見したところ、近世山城の主郭のような禅刹があります。臨済宗の瑠璃山光徳寺です。
  上町と寺下との境目の桝形跡の真上にあるという地理的環境が、街道と宿駅――寺社も含めて――が本来、徳川幕府にとって軍事制度、兵站装置だったという歴史的文脈を物語っています。光徳寺は、妻籠宿が城下町=城砦都市に準じて建設されたという事情があるのです。


◆寺院の地理的配置(場所)が物語る歴史◆



光徳寺は、馬籠の禅刹、永昌寺とともに有力な郷士だった島崎家とのゆかりが開基の機縁
となったと見られる。現在の光徳寺本堂の屋根は先頃、瓦から銅板に葺き替えたもの。



▲2012年当時の本堂は享保の再建以来、重厚な瓦葺きだったが、重すぎるので、近年、災害に強い銅板葺きに変えた


▲光徳寺の真下(真西)に位置する中山道と寺下の家並み


▲尾根高台の麓にある延命地蔵堂。本来は光徳寺境内だった。


▲延命地蔵堂の北脇から光徳寺にのぼる参道石段


▲桝形の辻から高台上の寺の堂宇を眺める。城郭のような結構だ。


▲山門は小ぶりだが重厚な薬医門。背後は鐘楼。
 本来は、この薬医門が正式の入り口(山門)だが、普段は隣の長屋門が通用門として用いられている。


▲薬医門に連なる鐘楼の屋根、漆喰土塀と石垣が織りなす景観は、まさに鉄壁の守りを誇る城郭のように見える。現在の石垣は修復を受けたもの。


▲通用門は長屋門で、武家屋敷風の構えだ。


▲本堂前の境内庭園の様子。背景は蘭川の西側の山並み。


▲光徳寺境内は漆喰土塀で囲まれている。手前の小径は、妻籠小学校跡から下って、桝形跡の前の辻に出る。

下の絵図は、明治初期の光徳寺の境内を示すもの。神仏分離の後で、すでに神社は境内に含まれていない。

  17世紀はじめに中山道と妻籠宿が発足した当初には、宿場街は上町、中町、下町だけで上町がその最南端でした。ところが、徳川の平和のもとで宿場の街並みは南に延びて、寺下と尾又という2つ街集落が加わりました。
  という事情から、最初期には妻籠宿の南端を守る防備としての桝形が、後の時代になると、寺下と尾又を加えた宿場町全体の中ほどに位置することになってしまいました。そして、そういう街外れを防備する軍事的施設として、有力な寺院もまた堅固な結構をともなって、桝形の真上――真東の高台に――に置かれていたのです。
  戦国時代末期から江戸時代前期まで、城下街を含めた城郭の縄張り――防衛構想――においては、街道など交通の要衝には軍事的防衛のために桝形が築かれていました。桝形とは、石垣を施したり、崖地形や堅牢な建物を利用して、直角に2回以上曲がらないと目に進めない経路、そしてそれをもたらす四角形の――桝の形をした――構築物のことです。敵軍の前進をここで止め滞留させて、弓矢と(鉄砲)砲撃で迎撃・殲滅するためです。
  多くの場合、桝形の直近に寺社――神仏習合の制度から寺院には神社が付随していた――を置きました。寺院には、樹林をともなう広大な境内と堅固な堂宇群があります。大きな城下街では、いくつもの寺院が並ぶ寺町が建設されました。戦時などの緊急事態には、そこに伏兵を配備するためです。


報道脇の庫裏棟は史料館になっている

庫裏の表座敷の様子

  信州の有力な城下町、たとえば松本、上田、飯山、高遠、飯田のつくりはそうなっています。徳川家は覇権を掌握すべく、戦国末期から江戸を中心に五街道を建設していきますが、街道と宿駅は、軍事物資をいち早く戦場の近くまで輸送するための兵站装置として整備されました。したがって当初、宿場街も軍事施設として、城砦や野戦陣営に準じた原則でつくられたのです。宿駅の出入り口に必ず桝形を設けたのも、そういう理由です。妻籠の光徳寺の位置と結構は、桝形と一体になって兵站としての宿駅を防衛する構想を明示しています。


参道石段から真下の寺下の家並みを眺める

光徳寺の重厚な堂宇群を囲む漆喰土塀

  光徳寺も寺域の境界はもとより、境内内の段丘・段郭を石垣で支えています。そして漆喰土塀で寺の周囲を囲撓しています。堂宇群は堅固で、高麗門や薬医門、楼門・長屋門などを備えていて、いわば小ぶりの城郭建築と言えます。
  伝承によれば光徳寺は、1500年(明応9年)に悟渓和尚によって光徳寺の前身となる寺院が中津川から木曾路のどこかに開山されたということです――享保1725年に編纂『木曽妻籠宿書留』。悟渓和尚とは、室町時代の臨済宗の高僧、悟渓宗頓のことで、京都の瑞泉寺、妙心寺、大徳寺の住持を務め、各地に有力な禅刹を開山創建したそうです。
  寺伝によると、1583年(天正11年)に飯田の開善寺の性天僧正が隠居所として薬師堂をこの近隣に設けたのが木曾路での寺の始まりとされています。光徳寺については、『本尊薬師瑠璃光如来奉刻彫勧進張』になかに、1599年(慶長4年)には堂宇の存在と薬師如来像の安置が記録されているとか。京都の仏師によって彫られた薬師如来像を本尊として勧請した史料があることから、この年には、宿駅建設に着手した妻籠に光徳寺が境内堂宇を構えていたと見られます。
  1602年に中山道が開削され妻籠宿が正式に成立すると、光徳寺は、妻籠宿の本陣職を担った島崎家と、脇本陣職を担った林家(奥谷)から篤く帰依され、1725年の堂宇の再建の際には両家が大きく貢献したとか。
  現在の光徳寺本堂はそのときのもので、入母屋、桟瓦葺、棟入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げとなっています。妻籠宿が昭和1976年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたさいに光徳寺の堂宇も構成要素として選定されています。


出典:『南木曽町誌 資料編』p478

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