寛文3年(1663)小諸御城内御絵地図 出典:小諸市誌編纂委員会編『小諸城城郭絵図』1991年
小諸城と城下町小諸の絵地図や城内の建築物図面は数多く残されています。その多くが上記の『小諸城城郭絵図』に掲載されています。しかし、まだ公刊されていない城と町の絵地図がかなりあります。
この絵図は、1663年に描かれた小諸城の本体部分の絵図で、小諸城の「内郭縄張り図」といってもいいでしょう。
懐古園での城跡探索のさいに役立ててください。しかし、1742年の中沢川大氾濫による破壊被害の修復やその後の改修・補修で、江戸末期までには城郭の形はかなり変わっていったものと見られます。
また、明治以後の改版置県にともなう城郭の破却や、その後の街道整備、鉄道建設、街並み建設などによって、ここに描かれている石垣や土塁の多くが解体されてしまったようです。
⇒絵図の修正版と失われた門についての資料を見る
ところで、惣構えに近い城郭の設計構想はここには描かれていません。
小諸城は「穴城」で、城下町であるとともに北国街道の宿駅(宿場街)でもある町の屋並みの南側の下降斜面に、城を何重にも取り囲む武家屋敷からなる街を形成していた「惣構え」があったのです。
荒町の街道と大手門、三之門辺りとでは、標高差が30メートルほどもありました。
この武家屋敷の街並みは、街道沿いの商家の家並みの裏側に隠れていたので、街道を往来する人びとの目には触れませんでした。街道よりも標高が低くなっていく地形を利用した構えだったので、町屋の家並みの下に隠れて見えなかったのです。
幕府や他藩からの公役使節・使者は鍋蓋城跡の城代家老屋敷を回り込み、大手門または三之門から藩庁としての城内に入ったので、やはりこの城の外郭の防御構造を知ることはできませんでした。
古文書の言葉使いからすると、街道沿いの町屋並みのすぐ南の武家屋敷街を含めて「城郭内」「城内」と呼んでいたようなので、小諸城の本当の縄張りは、この絵図よりも東に800メートル、南に600メートルほど広がることになります。面積にして3倍ほど広くなります。
その意味では、日本でもきわめて稀な――ほかには見られない――城郭と城下町の構造だったようです。
小諸城の外郭の防衛線を勝手に想定したものが下の絵図です。下図は『小諸市誌』からの出典です。
上掲の絵地図は、1871年につくられた小諸藩の絵図です。⇒18世紀前半の縄張り絵図を見る
この絵地図から、小諸城のいわば「惣構え」ともいうべき城郭防御と都市建設の構想が浮かび上がります。
小諸城の本体は、田切地形を利用して断崖や谷によって幾重にも取り巻かれた二等辺三角形をなしていて、その外郭の北・東・南を武家屋敷の街並みが取り囲み、さらにその外側に北国街道沿いの町屋の家並みが取り巻くという構造になっています。
本町通りの北側と、荒町から与良にかけての北東側には寺院や神社が建ち並び、街道を挟み込む防御陣形になっています。
そして、江戸期には、寺町の外側はほとんど農耕地で、ところどころに農村集落が点在していました。南側の武家地の外側もまた農村・田園地帯でした。
下に小諸城の穴城としての仕組みを略図で示します。絵図は、街道や商家町屋、武家屋敷町などのと高低差を描いています。