鎌倉〜江戸初期の千曲川水系の古地理
上掲の絵地図は、13〜17世紀はじめ頃までの小諸市耳取近辺の千曲川水系の古地理を推定して描いたものです。一帯の地形・標高などを調べ、探索して想像復元したものです。
耳取城跡の縄張りの南端にあった領主館は15世紀に領主の隠居所別邸になったようです。離宮を模した広大な庭園で、丹精された美しい庭といくつかの建物があったのではないでしょうか。
玄江あるいは玄江苑と呼ばれていたようです。16世紀半ば頃、城主、大井政継はこの別邸を寄進して禅刹の開基創建したということです。玄江とは「水辺の北の畔」という意味です。つまり、玄江院の南側の低地は池または沼だったということになります。
おそらく江戸時代の前期まで、耳取の南端には沼地ないし低湿地帯が広がっていたと推定できます。
1742年の「寛保 戌の満水」のさいにも、このような氾濫にともなう沼ができていた可能性はあります。水害後に各藩では、千曲川水系の流路改造工事や農業用水の整備で湿地帯の干拓を進めて、1760年頃までには、ほぼ現在に近い地形にしたようです。
ところで、濃い青入りで示した河川は、現在の水系と比較するため、現在の流路の状態を表しています。水色の範囲は池や沼で、場合によっては千曲川の分流がその範囲に分散し広がって流れていたかもしれません。増水すると、沼になったことも考えられます。