絵図の出典:『ビジュアル・ワイド 日本名城百選』、2008年 小学館、p141
縄張り図を見ると、本丸は幅の広い堀で三重に囲まれ、非常に分厚い水濠で防御されていたことがわかる。おそらくこの一帯は、女鳥羽川や大門沢川がつくった広大で水深が深い低湿地帯であったことだろう。城郭建設のために、湿地帯のなかでも堀の部分を掘り下げ、地中から堀に水を排出し、取り出した大量の土砂を城郭の土塁や周囲の武家屋敷や町人街の敷地に積み上げて干拓したのだろう。
要するに、城郭建築とは、大規模な土地改良・干拓事業であり、都市建設の構想なのだ。大外堀としての総堀は周囲の河川や運河とも連絡していたから、交通システムの構築過程でもあった。
さて、総堀の形状は台形で、規模は北側の底辺がおよそ600〜700メートル、南側の底辺が400メートル、これら2辺のあいだの距離が700メートルとなる。総堀の幅は大手門の東側で50メートルほどになった。この堀の外縁――台形状の帯――がもともと縄手と呼ばれたはずの区域だ。
総堀の南端は女鳥羽川に接し、西端は大門沢川の近くまでおよんでいる。ということは、これらの河川の上流部から水を退いて堀に水をたたえたということだろう。それゆえ、城北側の丘陵大地から見下ろすと、松本城は湖に浮かぶ城砦のごとくに見えただろう。
ところで、松本城の縄張りには「総構」はなかったように見える。お城周辺文化財保存委員会の「お城周辺文化財案内図」では、旧三の丸を囲む堀は「総堀」となっていて、外堀の位置づけはないようだ。だが、軍事防衛上の築城理論から見ると、総堀が本来の外堀ということになる。
だが、この堀は武田氏以来の「丸馬出」があるので、「総堀」までは城砦に直接組み込まれた縄張り区画ということになる。すると、周辺の都市集落をも含めた総構の防御構想はないということになるではなかろうか。通常の見方では、女鳥羽川が東と南の総構の境界となるはずなのだが。