長沼城の縄張りに関する各種の絵図
@記憶によって描き起こしたと見られる縄張り図
A長沼村落・耕地・城跡の絵図
B栗田町・上町部分の絵図(下掲の「千曲川・堀沼之図」の右半分)
C内町・六地蔵町部分の絵図(左半分)
上掲の絵図は、いずれも長沼城の縄張りを示す絵図面ですが、出典はすべて長沼歴史研究会編著『長沼城の研究〜城跡の検証〜』からです。
@の絵図面(作成年代は不明)は、長沼城が破却されたのち18世紀になってから、村人が過去の記憶をもとに描いたものと見られます。そのため記憶違いで、おそらく正覚寺と原立寺はともに外堀の外側にあったなずなのに、掘の内側に描かれています。そういう記憶違い(混乱)の原因として、この2つの寺院の外側にも堀の役割をもつ水路があった――城の破却とともに埋め立てられて細い灌漑用水路と田畑となった――ことも考えられます。
二ノ丸の外側(上図では下側)に「一ノ丸」と読める起債があるが、実際には三ノ丸です。紙と墨の劣化または剥落で横線2本が消えたのが原因ではないでしょうか。
BCは同じ一つの絵図面のそれぞれ右半分と左半分です。
18世紀末葉まで城の堀跡の池沼が残っていたのは、代官所の陣屋があって、その防備のために千曲川分流または本流から取水路で水を補充していたからであろうと見られます。また堀が深く掘り下げてあったために、堀畔の地質が砂壌土であり、伏流浸透水によっても堀の水位はある緯度保たれていたのかもしれません。幕末まで堀跡の池沼はあったものと考えられます。