山城としての芦田城を観察する

  ここに掲載した絵と地形図は、《宮坂武夫 著『縄張図、断面図、鳥観図で見る 信濃の山城と館』(2012年刊)、1巻 佐久》から引用したものです。著者は信州の城郭に関して非常にすぐれたフィールドワーク研究の業績を達成しています。
  芦田古町近隣の城跡の山に登って観察し、遺構の構造を鳥観図によってじつに正確に描写しています。研究能力もさることながら、素晴らしい絵画描写力に脱帽します

  さて、芦田古町は、中山道芦田宿の新町に対して、対比させての呼び名です。それが、芦田城の城下町でした。この町は山尾根や高台丘陵に取り巻かれています。したがって、軍事的防衛上、いたるところの高台や尾根峰に支城というか見張り砦や見張り台――「ねずみ」とか「きつね」と呼ばれる――が設けられていました。
  そこで、問題になるのが城主の居館(とその周りの家臣団の集落)の位置です。所領を統治するために領主の館と侍町がどこに形成されていたかです。江戸中期までは、城山の周囲を集落群が取り巻いていたそうです。そして、集落は、近隣の倉見(茂田井)や長窪、望月と濃密な結びつきがあったようです。
  要するに、頻繁で密接な往来交通の要衝にあったわけです。そういう事情から、城主の居館は、現在の古町集落の中心部辺りにあったと見られているようです。