望月城跡と中山道瓜生峠とを結ぶ小径の間に飯綱社と稲荷社の跡(遺構が)あります。そこは小径の路肩から谷に張り出したきわめて小さな尾根の背です。城本丸跡の南東方向です。
  稲荷社のものと思われる朱塗りの鳥居も、今は朽ちかけて折れてしまい、両柱が半分以下の高さになって立つ「鳥居の残骸」が残っています。しかし、尾根上にお遺構は丁寧な築山や祠の跡が残っていて、かつては熱心に信仰された神社だったようです。もはや訪う人もない跡地を探ってみることにしました。


◆山腹の小さな神社跡◆



道路の西脇の叢に大きな庫裏の古木が2本立ち並んでいる。そこから小さな尾根が
張り出している。その背に地面に沈み込んだように見える朱塗りの鳥居がある。

▲城跡から瓜生峠にやって来る道の脇に立つケヤキの大木


▲社跡の前の栗の老大木の木陰から瓜生峠に向かう道


▲尾根の中ほどで壊れた鳥居がゲイトガードになっている


▲鳥居前で振り返ると、庫裏の大木2本が並んでいる


▲鳥居の奥には-石垣に盛り土した壇跡が残っている(社殿の遺構か)


▲社殿が失われたのちの飯綱神社の祠の名残りのようだ


▲この石祠が稲荷社の名残りか

  望月城跡から舗装道路に出て、この道路を中山道瓜生峠に向かって100メートルほど歩いたところの西脇に栗の老巨木が2本立っています――樹齢は200年くらいか。その間の草むらに立つと、そこから西に小さな尾根が張り出しているのが見えます。
  尾根はおよそ20メートル続いて裾となり、谷間の樹林に消えてしまいます。その尾根の途中に地面に沈み込んだように見える朱塗りの鳥居があって、そこから先端5メートルほどが神社の神域になっているようです。


両柱が朽ち折れた鳥居の再利用した門柵

  朱塗りの鳥居といえば、お稲荷さんを思い浮べます。そのとおり、佐久商工会議所発酵の観光案内『中山道 佐久の道』によると、ここにあったのは稲荷社です。飯綱神社に合祀されていたようです。
  写真のとおり、朱塗りの鳥居は朽ちて壊れたものを(脚立風に立て)門柵または目印として再利用しています。もし神社があるなら、鳥居は神域を識別する結界の象徴ですから、両柱が折れた鳥居をそのまま放置するはずはないので、この神社はすでに廃されたようです。
  創建については、1104年に望月の開拓を指導した大森久八郎、望月右京、塩沢左七郎が飯綱権現を勧請して建立したと記録されているそうです。平安末期のこととて、御牧原台地で牧場の周囲に農民集落を開拓する事業がひと段落した頃でしょうか。飯綱権現の勧請創建は、ここには真言密教の修験道場があったはずなので、まあ当然だともいえます。朱塗りの鳥居は、江戸時代以降に稲荷社を合祀したときに建立したのでしょう。


壇跡のような塚上から鳥居を眺める

  おそらく望月城跡の周囲の台地高原に農耕地と集落が開かれた頃、現在地とは別の、台地の中央部にもっと近い高台に飯綱権現が設けられたのではないでしょうか――神仏習合の時代なので、神社とも寺院とも区別できない祈りの場として。後代(室町後期)に、尾根の下の鹿曲川の畔に集落が移転したとき城砦の南丸向かいのここに移されたのではないでしょうか。
  しかし、社殿などははるか以前に朽ち果てて、小さな尾根の先に石垣(社殿の基礎となる石組壇)と小さな石祠が残るだけです。 江戸時代には、小ぶりな権現堂と稲荷社殿が建立されたと思われます。
  飯綱権現は明治維新で神仏分離後に神社格となりました。朽ちて折れた鳥居は、昭和初期の建立のものと見られます。この跡地には倒れた松の幹がありますから、倒木でお堂や社殿が壊れ、鳥居柱が折れたのかもしれません。その後は、参詣に来る住民もいなくなって、神社は廃されたのでしょうか。

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