江戸時代の追川橋付近の中山道
上の絵図は、江戸時代における中山道和田宿の追川橋付近の地形断面を示す略図です。高低差をかなり強調してあります。
江戸時代の土木建築テクノロジーからして、中山道の路面は自然の地形に従ったものでした。下町の路面は、宿集落の街路では今よりも最大で1.5メートルほども高い位置にありました。
▲下の穀屋の街道に面した石垣と階段
▲対岸の町屋の地盤は路面よりも低くなっている
▲追川河畔から見上げたときの下町の地盤との高低差
山木屋・大黒屋、河内屋の町屋建物は今では石垣の上にありますが、往時は建物の地盤は街道と同じ位置にありました。明治以降、街道と家屋の基盤との段差を石垣で補強して階段をつけ、路面から家屋に上って入るようになったのです。
路面の掘り下げは、本陣――石垣による段差の補強がないから――の少し手前までおこなわれたものと思われます。
これに対して橋場地区の追川橋近くでは路面が低かったので、最大で60センチメートルほど土盛り嵩上げしたようです。そのため、追川近くの町屋の床面は路盤よりも低くなってしまうことになりました。
一方、追川を渡る橋は、谷間の河川敷や岸まで今よりも2〜3メートルほど下った位置に架けられていました。川の増水や氾濫で橋が流され、架け直されることは何度もあったものと考えられます。
そして、路面が掘り下げられる前には、谷底近くの橋際の路面と下町の路面との高低差は4メートルを超えていたのではないでしょうか。
中山道は宿場の街中でありながら、追川の畔は谷間で深く落ち込んでいたため、たとえば荷車の運搬では下り坂では加速の危険あると同時に、上り坂ではなかなか登りにくくて苦労する場合がかなり多かったといわれています。
米とか石材などの重い荷物を運ぶときには、3人係でようやく荷車を押し上げるというような場面を想像してみてください。
左一番下の写真は、追川橋の下流河畔から下町の家屋を眺めたものです。中央部は山木屋の町屋ですが、かなり高い地盤の上に建てられていることが容易に見て取れます。江戸時代には、追川を渡るためには、護岸の石垣の最下部まで谷間を下って橋を渡り、また登り返さなけれななりませんでした。
ところが明治以降現在まで、街道の起伏や高低差を小さくするため、下町では街場の路面を低く掘り下げ、また護岸工事によって追川の谷を埋めて現在の追川橋を架けるようになりました。近代化にともなう車両による輸送交通に適合させた路面地形にしたわけです。
してみれば、江戸時代の旅人は宿場を含めた街場を通る際にも大きな高低差を上り下りして通行していたということです。現代の便利で快適な交通環境になじんでいる私たちにとっては、往時の中山道の旅人の苦労や気持ちを理解するのは容易ではありません。