城下町から宿場町への転換の歴史
■和田庄の領主と城下町■
上の絵地図は、15〜16世紀に和田大井氏がこの一帯を統治する地頭(小領主)だった時代から江戸時代までの和田庄の集落と宿駅の形成と成長を検討するための材料です。ただし、道路は現代の状態で、和田宿各地の地名も現代のものです。15〜17世紀の道路はこれとはまったく異なるものだったはずです。(下の絵地図参照)
さて、和田大井家は、佐久一帯を支配した大井家の支族で、武石から依田窪一帯を支配した大井家の分家だと思われます。そこで、戦国後期まで、和田大井家が地頭として統治する領地である和田の庄は、武石・依田の庄に服属する所領だったということになり、さらに武石・依田の庄は佐久大井家に臣従する所領だったという権力のヒエラルヒーが成り立っていたわけです。
それゆえまた、武田家は信州攻めにさいして、信濃の中央部から東部を支配するために、佐久大井氏だけでなく、武石・依田を攻略し、さらに和田の庄も制圧しなければならなかったということになるのです。
ところで、和田大井家が地頭領主だった時代、城砦は城山(上ノ山とも古峰山とも呼ばれる)尾根の東北端に位置していました。大井氏の居館は、現在の信定寺の北隣にあったのではないでしょうか。その家臣団は信定寺あたりから釈迦堂橋のあたりにかけて住居を構えていたものと考えられます。
その場合、追川が西・北・東の防壁=自然要害となっていて、現在の釈迦堂橋の南側が城下町の中心部で、まばらな町集落は仮宿から下町の信定寺あたりまで広がっていたものと思われます。
そして、城下町を取り巻くように、南は下町南部から中町あたりにかけて、北は久保から山麓一帯にかけて、東は追川沿いに橋場地区まで農村集落が散在していたようです――ただし下町、中町の当時の名称は不明です。
さて、和田城址から見ると、菩薩寺と和田神社は北東方向すなわち鬼門に当たるため、鬼門除けとして寺院や寺社がすでに15世紀には配置されていたことでしょう。ということは、農村開発と耕地開拓は和田神社の近辺から原のあたりまでおよんでいたと見るべきでしょう。
水源に恵まれた和田の庄は豊かな穀倉地帯だったため、武田家の支配下に入ってからも、手厚く保護されたようです。というのは、大井信定が武田との戦役で敗死した直後に、地区の有力者たちには、その菩提を弔うため信定寺を創建することが認められ、和田郷と周辺農村の統治組織は従来通りに保持されることの証とされたからです。
おそらく、この一帯の有力者たちは戦役の前にあらかた武田家の調略に応じていたのでしょう。豊かな農村を荒らすことなく掌握するための最善の方法が、支配権の交代をおおかた調略で済ませ、戦役の目標を臣従を拒否する旧支配者を追討することだけに限定することだからです。
そういう兵法は、捕らえた駒(降軍の将兵)を自軍の兵として活用する日本の将棋のルールに明白に反映されているのではないでしょうか。
■中山道制定と宿駅街の発展■
ところで時代は下って、17世紀はじめ、覇権を掌握した徳川幕府は京洛と江戸を結ぶ主要街道のひとつとして中仙道を開設しました。険路難所、和田峠の前の和田に宿駅を建設することになりました。
街道整備と宿駅建設を幕府から命じられた松本藩は、さしあたりの間に合わせ方策として、追川から南にやがて下町や中町となる集落を建設し、周辺の集落の住民を移転させました。しかし、和田峠という険路の手前にある和田宿には多くの旅客や貨物が停留し宿泊、飲食、購買するので、半世紀もしなううちに急きょ、町の規模を拡大しなければならなくなりました。
ひとまず久保地区や鍛冶足地区の住民を移転させて上町の集落を建設しました。ところが、街道の旅客と物流はさらに急速に成長したため、18世紀になると今度は、追川橋の北東側に八幡社あたりまでに街区を拡張し、橋場から新田の街並みを建設しました。こうして900メートル近い町筋がつくられました。
このように、いわば場当たり的に宿場町を形成したので、宿場の入り口に桝形を構築することはかなわなかったようです。それでも、橋場から新田の街道筋を湾曲させ八幡社の手前で屈曲させたことで、北側の防備を施したようです。南側は難所の和田峠はあることとて、手薄にしたままでやむなしとされたのではないでしょうか。
さて、中山道の開設にともなって和田宿駅街の中心部として下町と中町がとり急いで建設され、街道交通・流通の急激な成長に応じて上町を追加的に建設したことは、下町・中町・上町の店舗や住宅の地割り(配置状況)からも読み取ることができます。下の絵地図を見てください。
■宿場街の成長と地割り(家屋の配置)■
上の絵地図は、『和田村誌』の「和田宿」の項にあった図を参考にし、私が和田地区を歩き回って見聞したことから推定した、上町建設直後までの宿の地割り絵図です。
この絵地図からわかることはこうです。まず、中山道の開設以前にすでに発達した城下町以来の都邑ないし農村集落が形成されていた下町と中町の地割りは、いわば自然発生的で規則性がありません。既存の集落の家屋配置や地権にもとづいて宿駅を建設するしかなかったからです。
それに対して上町の地割りは、ある程度は計画的な町割りに沿って家屋や地権を配分・配置してあることが明白です。とはいえ、もちろん、上町地区にもすでに農村集落が存在しましたから、町割りは整然とした矩形にはなっていません。それでも、事前の計画(町割り)にもとづく集落建設がおこなわれたことは明白です。
■町割り敷地の利用形態■
さて、町割りが規則的か自然発生的でまちまちであるかの違いは脇に置いて、このように間口が狭く奥行きが深い町割り敷地は、どのように利用されていたのでしょうか。
商家であれば、街道に面した側に店舗主屋を配置し、その横または裏手に土蔵や居住用家屋、さらに旅籠であれば中庭や奥庭を配置することになったでしょう。だとしても、敷地は大変に深い奥行きなので、裏手の敷地にはまだ広く余裕が残っていたはずです。
城下町松代での経験から私が推測すると、家屋の裏手には菜園などの畑あるいは水田があったものと思われます。松代では、下級の武家屋敷の裏手は田畑でした。まして和田郷は肥沃な穀倉地帯です。
左の写真は、よろず屋から長井本亭跡の辺りの敷地の裏手を撮影したものです。かなり広い面積が残されていて、田畑として利用されていたように見受けられます。
上の絵地図で、私は店舗・土蔵・家屋、中庭・奥庭に利用された敷地の境界辺りを宿場用水が流れているものと推定しました。その用水は田畑の灌漑とか庭の池への給排水に利用されたのではないかと考えています。これも、松代の武家屋敷町の経験にもとづいた推測です。