小谷村千国の里には、塩の道(糸魚川街道)に松本藩が設置した口留番所跡がありました。今そこにある千国の庄史料館では陣屋などの建物を復元し、その内部に役人の人形を配して、往時の番所での検問の様子を再現しています。 江戸時代の信州にあった番所陣屋の造りと検問業務の様子を再現したものとして、非常に貴重な資料です。ここでは、史料館の建物と展示を探索して、信州各藩の番所がどういうものであったのか、その一端を覗いてみることにします。


◆税関・検問所としての番所◆



▲千国の庄史料館の主屋: 間口12間3尺(22メートル)、奥行き6間1尺(10メートル)の茅葺二階造り

▲千国の庄史料館の敷地: 左の建物が番所の陣屋



▲番所入り口の門柱と柵、その奥が番所陣屋
 
資料館の資料によると、江戸初期には千国の庄屋が番所の検問役を担っていたが、やがて松本藩の行政組織が整うと、番所陣屋も設けられ、藩の役人が番所に派遣されてきたという。

▲番所の玄関は厳めしい趣き。旅人(通行人)はこの扉から土間に入る。


▲旅人はこの土間に座って取り調べを受けていた


▲土間の壁に架けられた背負子、藁氏、藁靴など


▲手形携行荷物改めをおこなう番所役人と書き役


▲隣の部屋で控える役人。荷駄や手荷物を検査することもある。


▲取り調べや検問をおこなう部屋と控部屋は隣り合っている


▲番所の敷地の端にある塩倉(ここに塩を備蓄していた)


▲酒造業者の主屋の土間に続いていた厩。番所にもあったかもしれない。

  小谷村千国集落には「千国の庄資料館」があります。そのなかに口留番所の陣屋と酒造業者の主屋などが移築復元されています。
  駐車場の奥に柵と門柱をともなう番所陣屋、その背後に酒造業者の主屋が置かれています。ここでは、番所陣屋の展示を中心に探索します。
  陣屋の建物は茅葺一階造り(厨子二階あり)で、間口が6間(11メートル)、奥行きが5間(9メートル)という広さです。この陣屋は、間口10間(18メートル)、奥行き24間半(44.5メートル)という東西に長細い短冊形の敷地の街道側にあったそうです。


番所陣屋の背後の酒醸造業者(史料館)の主屋

番所陣屋の前葉(背後からの眺め)

  左上の写真にあるような柵が街道側にめぐらされていて、そこから陣屋まではだいたい2メートル離れていたようです。敷地の奥に塩倉があって、そこに運ばれてくる塩の一定量が蓄えられていて、藩の独占専売として御用商人をつうじて小谷村の各集落や各戸に頒布されました。
  松本藩領内の塩の道の各所に塩倉が設置され、そこに塩が備蓄されていました。御用商人をつうじての専売によって、藩は大きな額の収益を得ていました。したがって、千国街道沿いでの塩の搬送の統制は、藩財政にとってきわめて重要な機能でした。

  ざて、千国番所は主に口留番所を担う検問所で、通行手形改めによる人物検査に加えて、松本藩に出入りする荷物を検査して関銭(関税)を課し、運上させました。検査のたびに納入させる場合と、月単位や半年単位でまとめて支払わせる場合があったようです。
  千国の庄を通過する旅人としては、一般の旅人よりも海辺の糸魚川から塩や海産物を松本や安曇野に輸送する業者が多く、ここで検問・検査する対象は北越方面からの塩と海産物でした。

  塩の道を通行する旅人や輸送業者(牛方や歩荷)は、この番所で検問を受けなかればなりませんでした。
  番所陣屋の造りは、間口の右側が入り口の戸で、そこをくぐると土間になっています。土間には筵や茣蓙が敷かれている場合もあったようです。旅人や牛方・歩荷たちはそこに正座して、一般の旅人は通行手形を、歩荷や牛方が業務用の鑑札手形を提示して身分証明をおこないました。
  彼らは番所役人によって手荷物や運搬荷を調べられました。輸送業者たちは、塩や海産物の量や質を調べられ、それに見合った税額(関銭=関税)を課されました。


鴨居・長押の上の壁には槍や鉄砲が配備されている

茅葺造りの家屋の屋根裏

  番所陣屋の土間から見ると、左側に取り調べ(検問)役の藩役人とその脇に書き役(書記)がいる部屋があって、取り調べ役が質問したり、手形の提示を求め、書き役が帳簿に手形改めや荷物検査の結果を記録しました。
  その部屋の右側には控の間があって、そこに詰めている役人は、囲炉裏の管理をしたり、必要に応じて土間に降りて、荷物の検分などをおこなったものと見られます。
  土間の壁には、今は草鞋や稲藁製の雪靴、背負子(背負い器具)などが立てかけられています。旅人や輸送業者のものなのでしょう。
  ところで、控の間の鴨居や長押の上の壁には、槍や鉄砲などがいくつも架けられています。番所は税関であるとともに。藩の権力機関であり、藩境を防衛する軍事装置でもあったのです。

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