佐久市野沢 伴野氏の領主居館を探索する

  鎌倉時代のはじめ、甲斐源氏の加賀美氏は源氏将軍家直轄領である信濃国司に任じられ、その子息、小笠原長清は佐久群伴野庄の地頭領主となったそうです。地頭職は長清の六男、時長に継承され、時長は伴野の在地領主となって伴野姓を名乗り、この地に城館を築きました。城館は時長の息、時直の治世に完成したと伝えられています。
  ところが、北条家一門内での権力闘争は霜月騒動となって、小笠原系の伴野氏はほとんど誅滅されてしまったのだとか。伴野所領はすべて北条家の支配下に移されましたが、伴野氏傍系の一族は伴野にいくばくかの領地を保持したようです。
  北条氏は伴野領の統治の拠点とするために、残された城館を改修整備し、今日に遺構が残る土塁や堀を構築したものと見られます。
  以上の伝説のほかに、木曾義仲とともに挙兵した佐久の武将領主、野沢太郎は野沢に拠点をもっていて、その拠点が伴野城の始原だとする伝説もあります。伴野氏は平安時代末に築かれた野沢城の遺構を利用して築城したのかもしれません。
  さて、戦国時代には、小笠原惣領家とは別系統(遠縁ではあるらしい)の伴野氏が、貞祥寺がある前山の高台に山城を築いて、野沢=伴野領を統治したと伝えられています。貞祥寺の寺伝では、前山城は伴野時長の息、長朝が構築して、その子孫(阿刀部=跡部氏)が代々継承して戦国末まで保持したとされているとか。 この伴野氏は野沢の伴野城の構えをそのまま出城として利用して、平坦地での統治の拠点としたようです。



▲野沢城(伴野城)跡の土塁跡と堀跡用水路:土塁の高さは3メートル近くある。堀の幅は石畳道路を含めた大きさだったか。


▲伴野城跡(城山公園)と周囲の用水路(堀跡遺構を利用して整備されたと見られる)

  戦国時代の1540年、武田信虎(信玄の父)が佐久に攻め込んださい、前山城も野沢城(伴野城館)も攻略されて、伴野氏は武田家に降り、その後、武田家家臣となって野沢城に常駐したそうです。織田・徳川同盟軍によって武田家が滅んだとき、徳川軍の依田信蕃が野沢城を攻囲し、城主は城を焼いて撤退したと言われています。
  その後、徳川幕藩体制のもとでは野沢=伴野は小諸藩領となって、この城郭の遺構は村落の穀物貯蔵所とされたのち、小諸藩の代官所陣屋として利用され、さらに岩村田藩ができると、藩侯内藤家の出張り役所となったのだとか。この段階で、事実上の廃城とされたようです。
  野沢城跡(城山公園)となっているのは城館の主郭跡で、横80メートル、縦110メートルほどの長方形で、土塁跡が保存され、堀跡と見られる水路がめぐらされています。大伴神社の脇には土塁跡に連結した土壇があります。幅が半分以下に削られたように見えます。ここには、楼台または見張り櫓があったものと見られます。
  公園の外側の周囲には、農業用水路がつくられています。これは、戦国時代に城館の縄張りを取り巻いていた堀の遺構(水路の勾配)を利用して整備されたものと思われます。ただし、明治以降の道路建設で、堀跡のうち埋め立てられたところもあると見られます。



▲信定寺領主館 出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』


▲公園東端の土塁跡:土塁上はケヤキや桜の並木となっている