これは、下諏訪町で秋宮の周辺を歩き回って観察した地形イメイジをもとにして、私が勝手に想像した太古のこの地方の地形変動の想像図です。
諏訪地方北部は、中央構造線と糸魚川静岡構造線という巨大な2本の断層帯が出会う場所です。この2つの断層帯は、相互に作用しあって大規模な地形の変動をもたらしたはずです。
上掲の絵図は、太古に諏訪湖北岸から北東岸の一帯が、巨大断層に沿って南側にずり落ちて、高低差100メートルに近い断層崖をつくり出したときの地形変動を想像したものです。
この巨大な断層の南側の降下は、南北に走る断層亀裂を何本もともなったはずです。こうしてできた亀裂・地割れに周囲の山岳からの降水が流れ込んで急流河川を形成し、諏訪湖に向かって流れ落ちていったのではないでしょうか。大きな浸食作用を持っていたでしょう。一方、諏訪湖も現在の数十倍以上にも広大で、増水や氾濫の規模もものすごく、また風や気圧差で波を生み出して、湖岸一帯を侵食したはずです。
こうして長い年月の間に、砥川や横河川、承知川の沿岸には幾重にも重層する河岸段丘ができ、諏訪湖含にも段丘が形成され、これらは複合して、今日のような複雑な重層段丘の地形をもたらしたのではないでしょうか。
和田峠への往還となる旧中山道沿いでも諏訪湖越しに富士山を展望できるポイントがいくつかある。そのひとつが、諏訪大社下社春宮の東側を下る旧中山道の坂道だ。慈雲寺界隈からの国道142号沿いの高台からも富士山を展望できる。
諏訪大社ができた古代には諏訪湖は今よりもずっと広く、春宮の参道大鳥居よりも高い位置まで湖岸が来ていたらしい。湖の南側では、諏訪大社上社本宮の間際まで湖面がおよんでいたという。
すると、この参道や下社春宮から見ると、上社本宮や前宮のやや東側に富士山の影が浮かび上がる。そして、下社秋宮の鎮守の森のすぐ右上に富士山の姿がある。しかも真冬には春宮のすぐ前から上社まで凍結した湖面上に御神渡りが走ったはずで、その先には富士の山頂が浮かび上がっていただろう。
そういう光景を想像すると、なぜ諏訪湖畔のこれらの場所に諏訪大社の各宮が造営されたのかという問いの答えは明らかだろう。
本州のなかで、これほどの神々しい絶景はめったにないだろう。
山並みに挟まれた谷間の左に富士山が見える。富士山の左下のこんもりした樹林は諏訪大社下社秋宮の鎮守の森。