諏訪大社 上社古地図


  上掲の絵地図は、上社古図(伝天正年中、権祝家矢島氏所蔵)です。天正年間から江戸初期にかけて(1580〜1610年頃)の様子を伝えるものとされています。記憶または印象をもとに描かれていると見られるので、それぞれの建物や施設の位置や形状は正確をかくところもあるようです。
  あるいは、戦国時代からの伝承にもとづいて江戸後期に想像を交えて描いた絵図かもしれません。
  さて、この絵図では諏訪大社上社と神宮寺などの寺院群が一体化して神仏習合の伝統にもとづいた聖域・神域をなしています。諏訪大社上社は囲いで囲まれているので、寺院よりも格上とあつかわれているようにも見えます。そして、守屋山の山頂までさまざまな宗教施設が置かれてるので、諏訪大神信仰と密教修験とが融合していた可能性も大きいと見られます。
  とはいえ、神社の境内のなかに如法堂とか輪蔵があるので、諏訪大社上社とより直接に結びついていたのが天台宗で、囲いの外の神宮寺や普賢堂などが真言宗に属していたという重層的な仕組みだったかもしれません。あるいは、古来からの大祝氏や守矢氏の拠点としての前宮一帯には大きな寺院堂宇を構築するわけにはいかなかったということで、神宮寺は本宮に隣接しながらむしろ前宮との結びつきが強かったのかもしれません。
  諏訪大社はきわめて歴史が古く格式が高いので、諏訪大神の権威のもとに多数の寺院が包摂されるヒエラルヒーになっていたかもしれません。そして、江戸中期以降に上社本宮に係属する寺院を塔頭支院として神宮寺が総括する経営体系になったとも考えられます。その場合、徳川幕府と諏訪藩の版籍管理の仕組みに照応したものと見られます。
  いずれにせよ、明治維新の廃仏毀釈運動によって、神宮寺など仏教関係の史料・文物が破却・破壊されてしまったので、かつての寺院の実情はわかりません。上記のように想像するだけです。

  上掲の絵は、北斗神社参道脇に掲げられている諏訪大社上社本宮かいわいの案内地図です。撮影して傷や劣化を補修し、方角コンパスを上書きしてあります。
  史跡・遺構などをめぐる歴史遊歩の道がテーマになっています。私がここで注目したいのは、鎌倉道(鎌倉街道)です。前宮かいわいの鎌倉道ついては、関連記事を参照してください。
  鎌倉道は、前宮の西側の火焼山ひとぼしやまの尾根中腹を回り込み大祝墓所の脇を東進して、西沢川を越えます。さらに武居古墳と武居畑を抜けて普賢堂跡を通って法華寺境内を通って、上社本宮の境内に入ります。そして、社務所脇の波除鳥居をくぐって、山裾斜面をのぼり、大国主命社と蚕玉神社のあいだを通って、山の中腹に分け入るようです。
  鎌倉道はこの先、龍雲寺や江音寺の参道に連絡するように山腹を北に進んで岡谷に向かったと言われています。江音寺の近くで有賀峠を越えて、辰野まで往き、北向きには小野に連絡し、南向きには伊那をめざしていたようです。鎌倉道に関する史料はあまり残されていないので、あちらこちらの断片遺構を推定と想像でつなぎ合わせるしかありません。