上の絵図は江戸時代の高島城の縄張りのごく大雑把な想像図です。正確な形状は「高島城 縄張り」というキーワードでネット検索して確認してください。
城郭の立地場所は諏訪湖南東部の湿地帯で、何本もの河川が諏訪湖に流れ込む河口部に砂洲がいくつも形成されていた地形だったと想像しています。そのなかで、湖面に岬のように突出した砂洲を縄張りとして、その周囲を掘り下げて水路をつくり、曲輪の周に堤防を築いて土砂を盛って干拓したようです。
周囲は一面、湿原葦原で、各郭の周囲には鉢巻石垣の上に土塁を施してあったと想像しています。
各曲輪は、軍事的防衛施設でもあったのですが、ことに衣ノ渡曲輪と二ノ丸、三ノ丸は諏訪湖舟運の交易基地でもあって、藩庁施設とともに船着き場や倉庫群があったのではないでしょうか。
南ノ丸は家臣の武家屋敷が並んでいたでしょう。その南側にやはり干拓造成した土地の上に城下街が形成されていたでしょう。その街集落には、舟運業を中心とした商人もいたでしょうが、多くは漁民や農民だったと思われます。
この城下街集落は、甲州街道の上ノ諏訪宿と結びついていました。
こんな城郭建築に不向きな軟弱な場所に築城した理由は、戦国時代の半ばまでのように難攻不落の城郭築城ではなく、商業物流と連結した兵站補給システムを構築し、城砦の周囲に広く面状の統治・支配をおよぼすことに城郭戦略が転換したことから、諏訪湖の舟運と中仙道、甲州道とを連結できる物流結節点を城を中心に掌握したかったという構想によるものと考えられます。