平安時代の後期(10世紀後半)、東福寺の大御堂沖という地籍に七堂伽藍を備えた天台宗の大寺院、補陀楽山観音院東福寺があったと伝えられています。
  近隣の人びとの篤い信仰を集めていましたが、源平の戦乱の横田河原の戦いのさいに戦禍を浴びて焼失したそうです。ところが、その寺院の本尊、十一面観音は兵火を免れて、小さな観音堂に祀られ、その後、お堂はいく度か場所を移され、江戸時代に現在地に祀られたそうです。


◆1100年以上の古い歴史をもつ観音堂◆



十数年前に再建された東区区観音堂。十一面観音が本尊。



▲須弥壇の上に新しい観音像が祀られている


▲近くの小学校の子どもたちがやって来た


▲地区の小学生たちが体験授業として古老から観音堂の歴史を学ぶ


▲観音堂と集落についての伝承を熱心に聞く子どもたちの


▲近年、鹿嶋社や養蚕社などが境内の一角に合祀された


▲神社の区画には天満宮や道祖神などの石神が並ぶ


▲集落中央を抜ける市道から観音堂の境内を眺める


▲墓苑からお堂を眺める


▲神社の背後(北側)の小径。お堂の奥には公民館がある、



▲石神群の背後が墓苑で、その東側にお堂が位置している

 近年、集落の北東端にあった鹿嶋社の石神群が観音堂の境内の南西端に移設された。小学校の通学歩道と県道の拡幅整備のために神社用地が接収されたためだ。
 仏庵としての観音堂と神社がまとまってことで、日本古来の神仏習合の格式がはからずも回復された。


お堂の内陣・須弥壇の様子

  『篠ノ井風土記』という古文書によると、平安時代の応和年間(960年頃)、現在の東福寺神社の近くに補陀楽山観音院東福寺という天台宗の巨大寺院があったそうです。平安末期、12世紀の後半まで栄えていたようです。
  平安後期から末期には、世の中の混乱や疲弊が目立ってきて困窮した民衆は救いを求めていて、おりしも浄土思想(浄土教)が中国から伝来して研鑽され、人びとの間に広まりました。
  天台や真言の密教では、世界=宇宙を統べる大日如来のへの崇敬とは別に、浄土をつくり人びとを救済する阿弥陀如来への信仰・帰依を重んずるようになりました。阿弥陀如来の配下で脇侍となっている観音菩薩が、俗人に近い存在として民衆に直接に救済の手を差し延べる仏として祀られるようになりました。
  仏教は、大和王権の権威と統治を鎮護する思想から民衆を救済する思想へと変化してきたのです。こうして、天台や真言の有力な密教寺院で護摩堂と並んで観音堂が建立され、人びとの信仰の中心となっていったようです。
  東福寺の山号にある補陀楽とは、観音菩薩が民衆を救うために浄土から地上に降り立った山だそうです。院号にも観音様をつけていますから、この寺院は当時、大きな威信と尊崇を集めていたと思われます。


漢音道の境内を眺めて回る小学生たち

近年、石垣の上の六地蔵の蓋殿も修築された

  東福寺は広大な寺領境内を保有していたようで、神仏習合の格式のもとで池田の宮という神社もあって、その神木のモミの木を彫って十一面観音像をつくり、それを大御堂の本尊としたそうです。
  大御堂とは、当時盛んに建立された大きな伽藍のことで、大きな観音堂(多くの場合、大悲閣と呼ばれた)です。

  ところが12世紀末頃、上皇と平家の確執から源氏が平家に戦いを挑むことになり、信州でも木曾義仲が平家追討の戦いに出陣しました。越後の城氏と木曾氏は横田河原で戦い、東福寺は兵火を浴びて焼き払われたのだとか。
  伝説では、大御堂の本尊の観音像は戦火を免れたといわれています。その後、小さな観音堂が建立され、東福寺村のあちらこちらを転々としたらしいのです。
  江戸時代の寛永(17世紀前半)の頃、仙岩という僧が現在地に堂庵を興して観音様を祀ったのだそうです。江戸時代前期には、北信濃では禅宗や浄土衆、浄土真宗の僧たちが信者とともに、戦乱などで荒廃衰微した古い寺院を再興・再建する運動が起きたそうです。東区観音堂も、そういう動きのなかのひとつだと見られます。


市道から畑の脇を往く観音堂への参道

  ところが2011年、観音堂は不審火で焼失してしまいました。本尊の観音様も失われてしまいました。その後、観音堂は再建され、十一面観音像もつくり直され、縁起を物語る大きな絵馬も奉納されました。
  今では、近隣の小学校の子どもたちが毎年お堂を訪ねて、地区のお年寄りなどから東福寺と観音堂の歴史や文化を学んでいます。

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