◆光前寺自然探勝園の森林遊歩道を歩く◆
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自然探勝園の「賽の河原」付近の森
針葉樹林のなかに遊歩道が続く
森のなかを沢が流れている
「樅の木広場」の先の様子
駒ケ根高原家族旅行村アルプス広場 |
三重塔は、すでに針葉樹にカエデなどが混じった深い森のなかに取り込まれています。その南側に向かう遊歩道の標識は、この先が「賽の河原」と呼ばれるところだと告げています。
賽の河原とはつまり三途の川ですから、どれほど殺伐な場所かと思っていると、杉やヒノキ、サワラが主で、ところどころにカエデなどの落葉広葉樹が混じっ山林で、境内の周囲とあまり変わりません。ただ、秋の森には寂寞が満ちていて、それがどこまでも続いています。
広い森で、どこまで行っても切りがないという意味では、三途の川の畔で石をいつまでも積み上げ続けるという意味合いで「賽の河原」なのでしょうか。
夏には清涼で素晴らしい森林浴遊歩コースかもしれません。
案内標識にしたがって樅の木広場まで行ってみましたが、ほとんどモミの木は見当たらず、杉やサワラの森です。もっと歩き回ってよく探せば、モミの木があるのかもしれませんが。
とはいえ、ここは、針葉樹林の端のようで、広葉樹の割合が高まっています。陽射しの量が増えました。
【駒ケ根高原家族旅行村アルプス広場】
さらに先に進むと、森のなかを東西に水量が多い渓流が横切っています。天竜川の支流、鼠川の上流部でしょうか。橋を渡るとまもなく、森が切り開かれたような広場に出ました。駒ケ根高原家族旅行村アルプス広場の北の端に出たようです。 |
◆旧竹村家住宅を訪ねる◆ |
駒ケ根市郷土館とその右手の旧竹村家住宅
旧竹村家の長屋門様式の納屋(寄棟茅葺)
長屋門から主屋を眺める
主屋は280年前の造り
主屋の内部の構造(平面絵図)【市の資料から引用】
囲炉裏の前から板の間と座敷や奥部屋を眺める
天井側の桁と梁の重厚な構造が目を引く
藩役人を迎えるための式台と上座敷
土間の隣の「うまや」と「こまや」
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光前寺本坊の前で光前寺通りはほぼ直角に右に曲がって、上り坂になります。その道路をのぼっていくと、今度は左に曲がった先に駒ケ根市郷土館と旧竹村家宅があります。大沼湖の北岸に当たります。
旧竹村家住宅は、およそ280年前、江戸時代中期の富裕な農民層の古民家です。国指定の重要文化財で、市内の中沢大津渡から移築され建築当時の様式に復元保存されています。
旧竹村家は代々名主を務めた有力な家門で、当時の伊那地方の富裕な特権的農民層に特有の造りの住宅はきわめて希少な価値をもっているのだとか。
中南信には有力農民層の家屋として板葺本棟造りの古民家は数多く残されていますが、この寄棟茅葺造りの古民家はそれよりも100年近くも古い様式の建築なのだそうです。
【裏手から見た長屋門】
主屋の前には長屋門造りの納屋が置かれています。建物は倉庫として使われているのですが、一般農民に対しては藩の権威を伝達し、藩に対しては農民の代表として渡り合うための立派な門の構えをなしています。
さて、主屋は正面間口側の幅(桁行)が22.9メートル、奥行き(梁行)が11.1メートルと広壮な建物です。
住民の通常の入り口は土間で、裏に通りぬけられる造りです。土間は板敷ないしネコ敷の台所や囲炉裏と隣接し、その外側(右側)には土間通路に沿って「こまや」と「うまや」が並んでいます。「うまや」の右側の「とおり」は、馬を用いたり世話するために、表から裏に通り抜けられるようにしてあるようです。
「こまや」は物置兼作業場で、「うまや」は馬を飼う場所で、間取りから旧竹村家は3頭の馬を保有していたようです。馬の保有数はその家の格式を表していますから、農民としては相当に高い地位にいたようです。商人も兼ねていたのかもしれません。
台所の左側(奥側)には陽当たりの良い南側に接客用の上座敷と下の間があって、これらは藩役人(武家)が式台から直接入室できる造りになっています。その裏手には、住人たちの休息や睡眠などのための部屋がいくつか配されています(左の平面絵図参照)。
以上のことから、この家屋は、右が下側で左が上側という位置づけになっているようです。
【主屋の裏手の様子】
屋内の広い空間を支えるために、柱の多さもさることながら、太い桁を天井川横に何本も通し、その上に重ねるようにこれまた何本もの梁を配置してあります。屋根の重さを屋内中心部の大黒柱などで支えながら、ほとんどを外側に並ぶ多くの柱に分散する構造になっています。
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◆駒ケ根市郷土館を訪ねる◆ |
郷土館(旧庁舎)の正面
ホールから左右対称の階段
考古資料室
宿直室:時計や機械の展示
階段踊り場の豪華な花
突き出た屋根中央の塔が印象的
玄関開口部とバルコニー、塔が建物の対称軸
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旧竹村家住宅の隣にあるのは、建築様式が対照的な駒ケ根市郷土館。大正時代の洋風建築です。
明治大正期の洋風建築といえば、松本市の開智学校がありますが、それは和洋折衷の見地屋様式で、本格的な西洋式建築という点では、この館が最も典型的なもので、きわめて希少です。
この建物は、大正11年に旧赤穂村役場として、伊藤文四郎工学博士による設計によるものです。アメリカ合衆国開拓期のコロニアル様式――大航海時代以降、ヨーロッパ人が開会植民地に建てた建築様式――を外形に取り入れ、内装ではこれにルネサンス様式を加味してあるのだとか。
【玄関ホールを横切る廊下】
【生産・生業室:一階の部屋は天井が高い】
【応接室と展示品】
駒ケ根市役所旧庁舎として使われていましたが、1671年に新庁舎建設にともなって現在地に移築したのだそうです。建築物を郷土館として保存するとともに、この地域の民俗文化財などの保存展示や各種イベント会場として活用されているようです。
【玄関ポーチとバルコニー】
玄関の開口部の上部はアーチ型で、扉の上を窓でカヴァーしています。ポーチの上にバルコニー。
【バルコニー底部が円柱列とともに玄関の装飾となっている】
【二階ホールからのバルコニーの様子】
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