今回めぐり歩いている寺院や神社がある地区は、おそらく昭和初期までは、太郎山山麓の緩やかな斜面が続いていて、ところどころに農村集落が点在しながら田畑が広がり、その背後まで山頂から深い森が迫っている風景だったでしょう。市街地化は1960年代以降のことです。表通りから住宅地に入ると、今でもいたるtころに小さな田畑や樹林が残されています。
  江戸時代、北国街道を歩く旅人は、矢出沢川の北に広大な田園地帯と山林を眺めていたことでしょう。そして、太郎山まで続く広大な山麓斜面の森を背景として仏閣や社殿の重厚な建物群を眺めることになったでしょう。
  街道両側には富裕な商家が並び、その南には上田城と城下町を、北には荘重な神社仏閣が並ぶ景観を目にして、上田藩の威風を感じていたはずです。


◆紺屋町八幡宮をめぐる◆


▲八幡宮の石の大鳥居

▲八幡宮の拝殿:入母屋造瓦葺き

▲拝殿奥の朱塗りの本殿

▲境内摂社の祠が3つ

  古くから旱魃のさいには、大星神社、大宮神社(科野大宮神社)とこの八幡社が三社がかりで雨乞いの儀式を催していたと伝えられています。往時、この辺りは城下街の郊外で純然たる農村でした。

  江戸時代、北国街道は城下町上田市街と郊外農村との境界を通っていました。城下町は城直下の東側を核として、北国街道に沿って城の南東側から北東側に成長していったようです。一方、城の真北側から西側にかけては、防御のために農地は開発されず、堀も含めて沼地や湿地が広がる原野で、そこには街集落はありませんでした。
  たとえば柳町は、城下の北東の縁辺で、街道の東から北側には農村・田園と広大な雑木林が広がっていました。商工業の発達にともなって、城下の市街地や郊外集落は街道に沿って、東から西へと拡張していきました。
  北向きから西向きに曲がる街道に沿って柳町の西隣に形成されたのが紺屋町で、染物屋などの繊維業者が集住していました。紺屋町はどんどん西に延びていって、やがて上紺屋町の西側に新たな集落として下紺屋町が形成されていきました。その後、さらに西には鎌原町ができ、その先には新町が生まれていきました。

  上記の上紺屋町と下紺屋町とのあいだを南北に通る小路――今では拡幅され紺屋町公会堂脇の道路――の北の端に、紺屋町八幡宮は位置しています。八幡宮の祭神は応神天皇、神巧皇后、仲哀天皇、玉依姫命だとか。
  真田安房守昌幸が1584年(天正12年)、上田城築城にさいして鬼門鎮護のために、現東御市にあった八幡神社を現在地へ移したと伝えられています。
  真田家が移封された後、上田藩主となった仙石家や松平家も城の鬼門除け神社として深く崇敬し、藩主自ら参拝することもあって、社殿の修築再建などは藩の費用でまかなわれたそうです。
  松平家の治下、八幡宮は弓矢の神と崇められ、毎年正月三日の射初式で金的に当てた者は、十四日から翌十五日未明まで催される宵祭りにその的と矢を奉納する栄誉を与えられていたとか。


◆上田大神宮をめぐる◆


▲神宮橋の袂から南方、柳町を眺める

▲神宮橋から武田味噌工場を抜けて上田大神宮への参道が続く

▲紺屋町の矢出沢川河畔から神宮橋を眺める

▲神明社系の大鳥居の奥に大神軍の拝殿

拝殿の左奥には恵比寿神社の社が見える
  上田大神宮は、明治維新という政治=軍事革命のなかで、政権の政策によって創建された神社です。大和王権系の国家神道イデオロギーによって日本全国の神社を序列化していく動きのなかでつくられた伊勢神宮の末社です。

  私は、歴史家として寺社の歴史と地理を探究していので、山河や森林などをご神体として崇敬する自然信仰とか、神仏習合という日本の伝統のなかで形成された素朴な神社崇敬には好感を抱いていますが、明治政府が進めた強引な神仏分離・廃仏棄釈や神道神社運動にはかなり距離感を抱いています。というよりも批判的です。
  とはいえ、そういう歴史を経て民衆のなかに生まれた神社信仰は尊重すべきだと考えています。明治政府の神道イデオロギーという政治的・人為的な外皮を外した内容としての人びとの信仰や祈りは大切にしたいと思います。

  明治政府が全国の神社を序列化し統制しようとして、上田市街の旧三ノ丸近くに建立した新宮教院上田本部がもともとの上田大神宮の起源で、伊勢神宮系の神道思想を甲信越に浸透させるための拠点となっていました。
  第二次世界戦争後、占領軍GHQは国家神道イデオロギーが日本の過激な軍国主義化の基盤となったとして、こうしたイデオロギー装置の解体を強制しました。上田大神宮が市街の中心部から現在地に移設されたのは、そういう政治状況のなかだったはずです。戦後の復興と高度経済成長を経て日本の伝統的な風景が消えゆくとともに、逆に神社に対する民衆の素朴な信仰心は復活したように見えます。
  この神宮に参拝に来て、そういう数奇な歴史を想起する人は今はもういないでしょう。現在では、ここが大和王権系の系譜を持つ神社であることをことさらに意識してここに参拝する人はほとんどいないでしょう。
  境内には恵比寿神社や三峯神社の社殿や祠もあって、自然信仰の汎神論として八百万の神を信仰する人びとの想いがこの神域を満たしているようです。

◆大輪寺をめぐる◆


▲黄金沢川 新田公園から200メートル下流。右手が大輪寺。

▲参道里口の冠木門

▲山門に続く石畳の参道は杉並木に囲まれている

▲「天照山」という山号扁額を掲げる山門

▲重厚な楼門と回廊

▲山門、右手には鐘楼、その奥に本堂

▲巨大な本堂 入母屋造りの大棟には六文銭が飾られている
 真田昌幸の正室、山の手殿は死後、寒松院としてこの寺に菩提を預けることになった。

▲回廊の前の濠と奥の庫裏
  上田城の鬼門に当たる北東方向には、これでもかというくらいに多くの寺院や神社があります。曹洞宗の寺院、天照山大輪寺もそのひとつです。


楼門の屋根は嵐で傷み修復工事中▲



楼門の両翼には回廊がめぐらせてある▲

  しかも、本堂の大棟に掲げられている寺紋は「六文銭」。つまり真田家の菩提寺のひとつだということです。
  ここまでの寺社歩きでは、城の鬼門方向だけをめぐりましたが、築城にさいして移設された寺社は合計で4つ――海善寺、呈蓮寺、八幡宮、大輪寺――になります。なぜ、このようなくどい寺社配置にしたのでしょうか。
  その理由は、築城にさいして大輪寺がもともと位置していた砥石城の東麓から、真田昌幸の妻「山の手殿」の願いにもとづいて現在地に移設された事態のうちにありそうです。
  というのは、上田城から見て真田家の本拠「真田の里」(旧真田町)は北東方向、つまり鬼門の位置にあるからです。砥石城は、千曲川河畔から神川に沿って北上する道筋において、真田の里を守る前門の位置にありました。
  そうなると、太郎山ならびに東太郎山の尾根で縁取られた上田城から北東部は、矢出沢川と神川の扇状地斜面となるわけですが、山麓斜面と河岸段丘でつくられた――小諸方面から攻めくる敵に対抗する――軍事的防衛線は、真田の里、砥石城とその出城、上田城を結んだ線と重なるわけです。
  つまり、城の鬼門方面に分厚い防衛戦線を構築できるようにしておかなければならないということになります。寺社の境内や堂宇が兵配備地や兵站拠点となることは言うまでもありません。


本堂脇の庫裏も広壮な造り▲

庫裏と楼門のあいだには鐘楼▲

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