江戸時代後期〜現在の千曲川水系
下の図は、現在の千曲川・犀川水系を示す絵地図です。
まず1603〜1616年にかけて――松平忠輝が川中島藩の領主となっていた時代――、松城城代、花井吉成の指揮によって、長池から大豆島のあたりで何本にも分流していた犀川をほぼひとまとめの主流にまとめ、また善光寺の西側から大豆島・屋島・柳原方面に何筋にも分流して裾花川をほぼ真南に直流させる河川中露の大改造を進めました。
この大改造事業は、松代藩に引き継がれ、1640年代以降、上田から松代に移封された真田藩には、おそらく武田信玄のもとで河川土木を担っていた専門家集団がいたようで、1世紀近くの長期にわたって善光寺平全域におよぶ大土木工事を展開して、犀川や千曲川の流れを変え、その無数の分流・支流の流路を全面的に組み換えて、広大な水田や可耕地を生み出したようです。このことは、藩の記録にも残されています。
さらに、柳原や長沼方面に流れ下って千曲川に合流していた浅川の流路を吉田辺りから北東方向に変えて浅野方面で千曲川に合流させる改造工事は、17世紀前半、長沼藩によって始められ、長沼藩の廃絶後には松代藩に引き継がれました。
まず裾花川の流れを、善光寺下から長池・柳原・村山方面に向かう流路から、開削して、ほぼ真南に向かう流れに変えて流水を丹波島に落として犀川に合流させました。また、おそらく犀川が大洪水の影響で大豆島の南側に本流が移りかけたことを受けて、本流路をさらに南に迂回させました。
とはいえ、江戸時代には、犀川には土砂の堆積による自然堤防しかなったので、犀川の流れはかなり奔放に蛇行していて、とくに雪解け季や豪雨のさいには、分流がいまだ河合新田や松岡の辺りまで達していたと思われます。
大正時代以降になると、現在の堤防よりもはるかに小さい築堤がおこなわれて、しだいに現在の状態に近づいていったものと見られます。
また、水田開発のために浅川の流れを柳原方面から豊野方面に変えながら、水田への灌漑用水路を形成していったようです。
そして、小田切の下、小松原から丹波島まで犀川から千曲川に向かってほぼ南向きに流れ下っていた何百もの小河川群を、小市から放射状に――南向きから東向きまで――流れる農業用水を開削してそこに水を落とし込んで、塩崎、横田から小森、東福寺・西寺尾を経て、神明、小島田にいたる方向に向かわせて、千曲川に合流させました。こうして、農業用水路に湿地帯の水を落として千曲川に流すことによって、この一帯は乾田化して、広大で肥沃な水田耕作地が生み出されました。