臨済宗妙心寺派の寝覚山の臨川寺は、江戸初期に尾張藩祖、義直によって中興再建されたそうです。木曾川岩壁の寝覚ノ床を寺域・寺領として管理し、景観や地形の保全に努めてきました。
  ただし、江戸時代以前の歴史や由緒については謎です。


◆木曾では例外的な立地の寺院◆



宝物館前から境内庭園の樹林越しに本堂を眺める



▲国道19号からこの山門をくぐって境内に入る


▲弁天堂の前から眺める本堂と庫裏(右手)


▲1712年(正徳2年)落慶の弁才天堂は上松町で最古の建築物


▲寝覚ノ床のかつての中州の岩丘上にある浦島堂(弁天堂)


▲浦島寺としての臨川寺の宝物館


▲三徳稲荷社殿

  寝覚ノ床は林泉寺の境内寺域の一部として扱われています。境内への入場券=拝観料を払って臨川寺の山門をくぐり、寝覚ノ床の見学に赴くことになります。

  さて、江戸時代までは今日のような治水技術がなかったので、臨川寺のように流水の暴威が逸れられた木曾川の川縁に寺院が置かれることはめったにありませんでした。例外的な立地です。
  とはいえ、現在、木曾川の河床・水面との標高差は25メートル以上もあります。ダムがなかった頃でも、川本の高低差は20メートつはあったので、川縁でも相当に安全な位置にあったといえます。
  寺伝によると、臨川寺は、寛永元年(1624年)に初代尾張公、徳川義直が寺域を提供し開基となって、木曾代官山村氏に銘じて堂宇群を再建し、中興したそうです。ということは、それ以前にここに堂庵があったということになります。
  しかし、ほかの木曾の寺院と同じように、由緒や来歴については史料がないようです。
  それにしても、これほど木曾川に近い場所に寺院を建立した経緯はどういうものであったのか、知りたいものです。


弁才天堂はじつに美しい入母屋造り

岐蘇路が奈良時代に拓かれ、それが平安時代に廃れていくと木曾古道が開削されてきた動きは、山岳信仰・密教修験などの宗教文化と密接に結びついていたと考えられます。険阻な山岳が連なる木曾地方の各地には密教修験の拠点として寺院がつくられたのではないでしょうか。
  それらが衰微すると、平安晩期から鎌倉時代にかけて興隆した臨済宗、浄土宗、曹洞宗などの学僧たちによる仏教復興運動が繰り広げられ、多くの古い寺院が復興され、新たな宗旨の拠点として再興再建されました。
  臨川寺もそういう動きのなかから再建または創建されてきたものではないでしょうか。室町前期に小木曾庄の地頭領主となった真壁氏、室町中後期にそれを駆逐して勢力を拡大した藤原系木曾氏は、自らの統治の基盤を固めるために、そのような仏教復興運動と結びついたのではないでしょうか。


浦島太郎を乗せたとされる亀の木像と祠

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