倉本駅の西側の国道19号に出てからおよそ500メートル北に進み、国道から左に分岐する野道に入ると、そこが立町集落です。旧中山道に沿った家並みが250メートルほど続きます。
  集落は木曾川の畔の河岸段丘面にあって、川面からの高低差は10メートルくらいです。家並みの中ほどを空沢の小渓谷が東西に流れ下っています。
  集落の南端近くに古い吊り橋があって、80メートルほどの幅の木曾川の上を歩いて対岸の諸原集落まで渡ることができます。


◆立町の吊り橋と中山道を探る◆



立町から木曾川の対岸に渡る吊り橋。人が歩いて渡る細い橋で、昭和中期までは信州各地にあった。



▲旧中山道から吊り橋に向かう細道。橋の対岸は諸原という地区。


▲木曾川対岸(右岸)から吊り橋の全体を眺める


▲吊り橋の中ほどから左岸(東岸)を眺める


▲立町側から対岸に向かう吊り橋: 影が水面に映っている


▲下流の倉本方面に流れ下る木曾川。河床に大石が転がっている


▲右側の国道から分かれて旧中山道に下っていく


▲立町の家並みの南端。電柱の先が吊り橋への入り口。


▲旧中山道から分かれて上にのぼる道路沿いの家並み


▲空沢橋は、立町の中山道の中ほどにある


▲空沢の下流部: 名前の通り、普段は流水はごくわずか


▲伝統的な出梁造りの町家がいくつか残っている


▲懐かしい中山道の姿がいく分残っている家並み


▲歩道橋の手前で旧街道は国道19号にふたたび合流する


▲国道を渡って、段丘崖の下を往く小径。家屋の背後に見える針葉樹林神明社の境内のようだが、鉄道線路によって境内と参道が分断されてしまったらしい。

◆国道沿いを歩いて立町へ◆

  倉本集落では、大沢川を渡ってからの旧中山道の道筋を辿ることができましたが、集落の北端を出たところで草道がJR中央線の線路の下に消えてしまい、痕跡を辿ることができなくなってしまいました。
  線路の脇には国道19号が並行して通っています。鉄道と道路の建設工事のいずれか、または両方でで旧街道の痕跡は完全に埋もれてしまったようです。国道脇の路側帯のような狭い歩道を歩き続けることにしました。
  すると500メートルほど北に進んだところで国道から西に分岐する草道に行き着きました。ここからは立町集落となります。立町は、ここから木曾川の畔の河岸段丘上を旧街道沿いに200メートル余り続く家並みで、ひらがなの「く」のような弧を描いて、ふたたび国道に合流し、横断します。
  ほんの短い道のりですが、家並みのほかにも見どころがあります。まず分岐してから130メートルくらいの岸辺に吊り橋があり、そこからおよそ80メートル北では空沢という渓流を渡ります。
  木曾川の河床と街道沿いの家並みとの距離は、最も近いところで20メートルを切るほどですが、この河岸段丘面は木曾川の水面とは7~10メートルほどの高低差があって、通常の増水ならまずまず安全な地形となっています。

◆大正~昭和期につくられた吊り橋◆


橋床の幅は60センチメートルくらいか


上流の下河原方面の景観

  せっかくの機会なので、私は吊り橋を対岸まで渡ってみることにしました。橋の銘板は見つかりません。したがって橋の名称や長さなどははわかりません。
  このような吊り橋は、大正時代から昭和前期に信州各地につくられました。人が河川の両岸から往来するために建設され、鉄筋コンクリートの支柱を両河岸に建てて、木製の橋床とトラス(欄干)をワイヤーで吊って支えている構造です。
  木曾川の流れの幅は50メートルで、河床(両岩壁)の間が70~80メートルくらいですから、橋長はおそよ80メートルほどでしょうか。橋床の幅は60センチメートルくらいで――行き違いができないほど狭い――、渡るときに真下に川の流れを見おろすことができます。水面までの高さは8~10メートル弱というところでしょうか。
  歩くと揺れます。私は子どもの頃からこの手の吊り橋を渡り慣れていますから、怖さは感じません。清冽な木曾川の水流や大きな石が河床一面に転がっている河川敷は。いつまでも見飽きることはありません。知られざる観光名所です。


旧街道は、桜の木の先で国道から分岐する

◆立町の街道と家並み◆

  立町に入っていく野道は、棧沢かけはしざわの渓谷を越えた地点で国道19号から分岐して木曾川の谷間に下っていきます。今は、土盛り嵩上げした路盤となっている国道ですが、江戸時代の中山道はこの渓谷をどのように越えたのでしょうか。
  江戸時代、木曾川の支流の沢や河川を越える方法はだいたい2通りありました。ひとつ目は、藤や蔦などの蔓を対岸の岩や大木に数本投げ渡し、それで木製の橋を釣り上げて吊り橋とするやり方――これを「投げ渡し橋」と呼んだそうです。もうひとつは、流れの幅が狭くなるところまで谷をのぼり、そこに丸木橋や投げ渡し橋を設けるという方法です。
  私の推測では、沢の渓谷を少し遡って丸木橋や投げ渡し橋を渡り、そこから沢沿いに下って木曾川畔の立町に入ったのではないかと見られます。


「蛇抜け沢」と呼ばれる空沢

  さて、旧街道が木曾川の岸近くに寄っていくのは、そこが木曾川の川面と高低差があって安全な河岸段丘面をなしている場合です。言い換えれば、緩やかな傾斜の尾根が木曾川に向かって延びていて、尾根の先端部が侵食された河岸段丘になっている場合です。
  ここ立町もそういう地形の場所で、上流のダムがなかった江戸時代でも、河岸段丘面と木曾川の水面とは5メートル以上の高低差があったようです。だから、ここを通る中山道は木曾川の増水による水害を被る危険性が低かったのでしょう。
  ここには大正~昭和期に吊り橋が架けられて、今も残っています。江戸時代にも対岸に耕作地や住宅があって、行き来していたのではないでしょうか。だとすると、立町に渡し船があったのかもしれません。
  この街には江戸時代、街道の輸送を担う馬方や牛方、歩行役が休憩する立場があったそうです。立町(たちまち)という地名も、立場がある集落だったからかもしれません。
  この一帯の地形を探ると、立町の南の外れが一番標高が低いのですが、そこは棧沢の谷間に近いところです。旧中山道は、この谷間の縁から北に向かって緩やかにのぼっていく経路となっています。
  その途中で旧街道は空沢を渡ることになっていました。この沢は「蛇抜け沢」で、豪雨の直後に土石流が発生する危険性が大きな流れとなっているようです。
  国道に近づくと、木曾路の伝統的な出梁造りの家屋(古民家も混じる)が目立つ家並みになります。

歩道橋の前で旧中山道は国道にふたたび合流します。ここで、またまた旧街道の遺構や痕跡は消えてしまいます。遺構や痕跡が国道の下に埋もれてしまったのか、鉄道の下に埋もれたのか探る手掛かりはありません。

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