上松町立町の中山道は、河畔からのぼって国道19号を斜めに横切ります。今は国道の路面となっている場所にも、かつては家並みがあったのではないでしょうか。 そして、国道を横切った先の中山道は鉄道線路の下に埋もれてしまったものと見られます。鉄道の基盤は嵩上げされて、線路は人工的な段丘崖の上の面を通っています。
  中山道にとどまらず、立町の家並みの北端にあった神明社の境内もまた鉄道と国道の建設によって分断され、主要部分は鉄道の下に埋もれてしまったようです。


◆往古の神明社の姿を探索・想像してみよう◆



神明社の社殿下の石段脇から境内の西端と大鳥居を眺める。線路が境内を分断していることがわかる。



▲神明風の大鳥居は昭和後期に再建されたものらしい


▲線路の東側に抜けるトンネル


▲境内の主要部は鉄道に変わり、鉄道擁壁下を往く細い参道


▲急勾配の石段の上に拝殿が見える


▲針葉樹林に取り巻かれて、拝殿の奥に本殿が設けられている


▲本殿の土台は石垣で支えられている


▲境内摂社が3つ並んでいる。社号はまったくわからない。


▲社殿群の背後には崖と呼べるほどに急斜面が迫っている


▲社殿群から南東に向かう杣道は木曾古道に通じているらしい


▲この杣道は荻原方面(北)に向かう中山道の脇道かもしれない

◆分断された境内神域◆

  残念ながら木曾でも、「殖産興業」という経済的欲望の前には、「天皇家の祖先」を祀る伊勢神宮を勧請した社の境内さえも森林鉄道建設によって分断されてしまったという苦々しい歴史が見えてきます。
  一見、絶対的にも見える「戦前の天皇制レジーム」も、近代経済の建設という資本主義的なニーズには恥も外聞もなく膝を屈するという、政治と経済の「ご都合主義」は歴然としていて愕然とします。中山道と、立町の歴史的景観や文化財とか人びとの祈りの場への配慮はすっかり後回しになってしまったようです。
  悲観して嘆いてばかりでは仕方がないので、今に残された立町神明宮の遺構や痕跡から、おそらく20世紀初頭まで保たれていた神社と中山道の姿を想像し、頭のなかで復元してみましょう。


トンネルから出たところに石段参道がある

  国道19号に面した神明宮の境内壇上にのぼってみると、鉄製の大鳥居の背後で境内は分断されていて、そこにはJR中央線の鉄道の法面(段丘崖)が迫っています。鉄道の背後に山林と一体化している神域があるようなので、北側の線路をくぐるトンネルの向こうに回ることにしました。
  狭隘な木曾谷の斜面に鉄道を建設するためには、当時に技術ではここしか場所はなかったということなのでしょう。しかし、昭和後期の国道建設でも事態はいっそうひどくなったようで、歴史的景観の保護・復元はまったく考慮されなかったものと見られます。

◆社殿群は背後の山腹に移されたか◆


崖斜面では拝殿の前も大変に窮屈だ


摂社群の奥に見えるのは本殿

  ここは鉄道が複線になっているので、法面を含めた基盤の幅は14メートルほどにもおよびます。もともと斜面にあった以前の境内のうち、半分以上が線路の下に埋もれてしまったのでしょう。
  おそらく埋もれてしまった場所に拝殿と本殿などの社殿群が置かれていたのではないでしょうか。それらが、背後のさらに急勾配の山腹斜面に――追いやられるように――移設されたと推測できます。
  山岳に囲まれた木曾谷に暮らしてきた人びとは、祈りの場である神社がこんな急傾斜面に移されても、さほどの苦労はなかったのでしょうか。経済的に豊かになるだろうという未来への明るい展望が、多少の不便さを克服したのかもしれません。
  それにしても、急な石段をのぼって、これまた急斜面の社殿や祠を探索してみると、とんでもなく大変だと実感します。高齢化が進んだ現在では、集落の住民の参集や祭礼行事もままならないあのではないかと思われます。
  今回見回した印象では、祭礼などの行事は数年以上もここでは催されたことはないと見られます。やはり、人びとの日常生活から離れてしまっているように感じられます。


崖斜面の下に鉄道と中山道遊歩道が見える

◆線路脇の崖を往く中山道遊歩道◆

  さて旧中山道は、今は鉄道の脇の崖縁を通る細道になっています。人がひとりだけ歩けるほどの細道で、鉄道を見おろしながら北に進むことになります。
  この辺りは、鉄道建設のために斜面が切り通されて鉄道脇の擁壁が崖になってしまったと考えられます。その結果、中山道は崖縁の細道になってしまったのではないでしょうか。

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