荻原の東方、鹿嶋社脇を通る林道を道のりで3.5キロメートルくらい辿ると、東野という集落にいたります。西方に荻原沢の谷を見おろす高台にある小さな村落です。
  そこに平安時代からの由緒をもつと見られる阿弥陀堂があります。江戸時代の文化年間の火災で焼失した後、文政期に再建されたと伝えられています。
  今回は、この集落を訪ねて阿弥陀堂を探索します。


◆風越山中腹の木曾古道をたどる◆



みごとな古民家の先に覆い屋のなかの阿弥陀堂が見える。背後に風越山の尾根が迫る。



▲養蚕に合わせた総二階の本棟出梁造りの古民家


▲集落の西側は水田地帯で、その向こうは荻原沢の谷間


▲これも養蚕に適合した造りの古民家


▲古民家の妻側の造りを見る


▲隣のお宅が阿弥陀堂の鍵を管理している


▲阿弥陀堂を保護するために大きな屋根が覆っている


▲脇の林道から見おろしてお堂の屋根の棟側を見る


▲隣家の古老がお堂の鍵を開けて中に入れてくれた


▲内陣欄間と須弥壇の全体が金箔で荘厳されている

 阿弥陀堂探索のさい、私は運よくお堂の隣の古民家に暮らす老夫婦と出会った。彼らは、住民がわずか4世帯になった集落でお堂の鍵の開閉を管理しているそうで、阿弥陀堂の内部を見せてもらえることになった。

 阿弥陀堂の前にある説明板によると、お堂は文化初年に焼失して、その十数年後の文化5年(1822年)に再建され落慶法要をおこなった・・・そして内陣外神の装飾も再現され、格天井の絵107枚は村山代官のお抱え絵師、池井裕川が描いたということだ。
 内陣の須弥壇や欄間の金箔荘厳もじつに精巧で、山奥の阿弥陀堂としては飛び抜けて高い格式が認められていたことがわかる。


扁額に漆で揮毫された阿弥陀堂の山号

◆岐蘇路と木曾古道◆

  すでに奈良時代に都から信濃国府や北越に連絡する官道として木曾山中に岐蘇路が開削されたと伝えられています。連なる山岳の尾根や峰に沿って往く道だったようです。開削工事やその後の道路の維持管理のために、山深い道沿いに拠点となる集落もまた建設されたでしょう。
  縄文時代から木曾川の流水による破壊力を怖れて木曾山中の尾根を往く道がつくられていましたが、その後も弥生時代、奈良時代、平安時代までそのような山間の道づくりの知恵や技能が伝承されたものと考えられます。
  山中での道路の開削と建設にあたっては、山岳信仰の修験者たちが山岳の地形や鉱物、植生や鳥獣や産物などの事情に精通していたので、道路建設に携わる集団に同行したり先導したりしていたのは、いわば当然のことでしょう。そうでなければ、地形環境に応じた安全な道づくりはかなわなかったでしょうから。
  もちろん修験者たちは、大和王権の権威の伝達普及にに沿った形で道路建設に携わり、協力したでしょう。してみると、岐蘇路開削の活動は、大和王権の権威の伸長を促す形での山岳信仰の普及――山岳信仰・修験の拠点づくり――をともなっていたと考えられます。
  やがて岐蘇路と沿道の集落ががすたれていった後、木曾古道と呼ばれる新たな時代の連絡路がつくられていきますが、山岳信仰の拠点、霊場(寺社)は、王権と結びついた天台や真言の密教宗派によって指導されながら、道路の開削活動を支援する拠点となったはずです。

◆東野も密教修験の拠点だったか◆


降雨劣化を防ぐため覆い屋がかぶさっている


阿弥陀堂の後ろ側の様子

  こうして、木曾古道ネットワークの結節地・要衝となった集落に密教修験の霊場(寺社)が置かれるようになっていったと考えられます。木曾路では熊野権現が祀られた十二兼、倉本などがそれで、東野もそうだったと見られます。
  そのような動きは平安後期からいよいよ活発化したとすると、疫病や戦乱のなかで浄土信仰・阿弥陀信仰、観音信仰が広がったことから、霊場となった寺社にそれらを祀る堂宇が数多く建立されたであろうことも推測できます。
  東野にある照谷山阿弥陀堂の来歴もそういう文脈に位置づけることもできるでしょう。


旧街道は、桜の木の先で国道から分岐する


格天井は木曾代官のお抱え絵師が描いた

  阿弥陀堂の隣にある古民家のおじいさんによると、東野には今8軒の家が残っているが、住んでいるのは4世帯だけだそうです。
  荻原から東野までは、直線距離が約1.5キロメートルで標高差が約250メートルという急斜面をつづら折れの舗装林道をのぼることになります。この林道は木曾古道に沿って建設されたそうですが、徒歩での旅しかなかった時代の古道はずっと直線的に尾根を直登する経路だったとか。
  倉本から稜線沿いに東野までやって来た木曾古道は、風越山の中腹を北に抜けて吉野まで達し、さらに福島宿まで連絡しています。

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