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長野県木曽郡南木曽町
 
  三留野宿は1891年(明治14年)の大火災で宿場街のほとんどが消失してしまいました。
  現在の街並みはそれ以後に再建されたものです。とはいえ、再建された古民家には、江戸時代からの伝統的な建築様式が受け継がれていました。
  しかし、JRの駅から離れているので、明治以降、とくに昭和期の経済成長から取り残され、近年は住民の高齢化で街並みは寂しくなっています。
  写真:上仲町と下仲町との境辺りの家並み。

 
鹿曲川の峡谷を往く


河床には巨岩が転がり、切り立った崖が迫る木曾川

  三留野宿は、急傾斜のV字峡谷をなす木曾川東岸にあって、街通りから木曾川の河床までおよそ300メートルの水平距離しかありません。そして、木曾川の河床との標高差は40メートル前後もあります。三留野の街は標高440メートルほどですが、木曾川対岸の同じ標高の地点まで水平距離で600~700メートルくらいしかないのです。
  誇張した表現を用いれば、うっかり物を落とすと、三留野の街から木曾川まで転がり落ちていってしまいそうな地形なのです。さいわい、三留野から木曾川までまっすぐに下る道や斜面はなく、段丘や窪地など起伏が激しいのですが。

■三留野の歴史と地理■

  三留野宿の南手前にある梨子沢の渓谷は2014年に大規模な土石流を引き起こしました。氾濫・土石流の危険があるため、本来の地形は大きく改造され、往時の面影は残っていません。
  梨子沢渓谷を渡る橋を渡ってしばらく北に進むと、下り気味の小径が左に分岐します。坂ノ下の街区に通じるこの道が旧中山道です。


小径の右手(東脇)に石製の常夜灯が立っている

■三留野宿の歴史■

  三留野宿は、中世に木曽を統治していた木曾氏一族(のちに妻籠氏を名乗る)の居館があり、その屋敷が「御殿みどの」と呼ばれていたため、地名が「みどの」になったといわれています。
  戦国末期近く、1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いでは、この地の領主、木曾義昌は豊臣秀吉に味方し徳川家を敵に回したため、家臣の武将、山村良勝が妻籠城に立てこもり、徳川方の保科正直らの軍を妻籠城に引き付けて死守した戦いは有名です。
  1602年、中山道の宿駅制定とともに、三留野村は宿駅に指定され、その後、街道宿場街として繁栄することになります。
  江戸時代はじめは、木曾は幕府直轄領でしたが、徳川家の覇権が確立した1615年から尾張藩領となりました。三留野村の規模は、
  1674年(延宝2年)には人口746人
  1727年(享保12)に戸数116軒、739人
  1838年(天保9年)に177軒、1123人
  1860年(万延元年)に207軒、1177人
となっているそうです。庄屋はほとんど宮川家が担い続け、宿駅の本陣も務めました。天保14年の調査によると、本陣1軒(宮川家)、脇本陣1軒(宮川家)、問屋1軒(勝野家)、旅籠32軒となっています。


坂の下桝形跡前で旧中山道を振り返る


桝形があった段丘崖をのぼるコンクリート階段


上仲町の通り崖上から坂ノ下の家並みを見おろす

  こうして、三留野は室町後期から、交通の要衝として栄えましたが、江戸時代には万治、延宝、元和、宝永年間の4度火災があったそうです。1881年(明治14年)の火災で宿場街のほとんどが消失してしまいました。現在の町並みはそれ以降に再建されたものです。
  地形を見ると、宿場の西には木曾川が北から南に流れ、三留野はその深い谷間の左岸、西向きの中腹斜面に位置しています。木曾川を挟んで対岸(西岸)には伊勢山(標高1373m)がそびえ、背後には南木曽岳(標高1677m)の主稜線が南北に峰を連ねています。
  三留野宿と野尻宿との間の中山道には、木曽川の浸食によって削り取られた断崖が迫り、羅天桟道や与川渡しという木曽路でも屈指の険阻な難所が続いていました。大雨が降るたびに川止め、通行禁止になるので、享保年間に「与川道」と呼ばれる迂回路が三留野の北東にある山中の谷間に開削されました。
  与川道は、三留野宿の北端、東山神社御仮宮の前から東に尾根をのぼっていく山道で、三留野愛宕山の東麓を迂回して山深い与川の谷間を北東に進み、二反田川の渓谷を西に降りて野尻宿に向かいます。あるいは、与川の谷間をさらに北東にたどって大桑村の伊奈川の谷間に入って木曾川河畔の須原宿まで下ります。


柏屋の町家造り: 一階も二階も縦密格子の雨戸


柏屋の軒下: 二階の梁・桁・床が一階よりも外に出ている

  ところで、1533年(天文2年)に木曾地方の有力領主、木曾家の17代当主、義在が領内の馬籠宿から洗馬宿までの街道古中山道を整備したと伝えられています。そのなかには三留野宿も含まれていたでしょう。三留野宿本陣を務めた鮎沢弥左衛門の先祖と見られる鮎沢弥三郎は、1579年(天正7年)、領主、木曾義昌から三留野村の所領を安堵され、小牧・長久手の戦いで妻籠城に籠った城将のひとりだったそうです。
  鮎沢家は中世以来の土豪で、木曾氏がこの地を離れたさいに帰農し、まもなく三留野宿の村役人(支配層)になったようです。問屋の勝野家の先祖も「義昌従士名」に名を連ね、鮎沢家とともに妻籠城に詰めていた記録されています。三留野の地は古くから戦略的要衝だったようで、1590年(天正18)の小田原の陣にさいしては、上杉軍の援軍として兵站を担った豊臣軍が三留野宿に陣を構えたようです。
  三留野宿は「新町」「上仲町」「下仲町」「坂の下」の4集落で構成され、街並みは2町15間(約153m)の長さがありました。
  街道の上の高台にある等覚寺は天正年間(1573~1593年)に当地に移ってきたと伝えられる曹洞宗の寺院で、境内に建立されている円空堂には円空仏(弁財天十五童子像・天神像・韋駄天像:南木曽町指定有形文化財)が安置されています。寺の背後には東山神社があります。
  1911年(明治44年)に中央本線が開通し、木曾は飛躍的に発展し。ことに三留野駅(現南木曽駅)は伊那への物資の集散地として栄え、駅周辺に急速に人家が増えていきました。けれども、三留野の宿場は駅から離れていたため寂れてしまったようです。


脇本陣跡の30メール北側から街道を振り返る


道の右が東で、西に向かって谷が下っている

  1881年の大火災で三留野宿の大方は焼失してしまいましたが、まだ明治時代の前半ということもあって、街道沿いには、江戸時代から続く伝統的な出梁造りの町家が軒を連ねる家並みが復活したそうです。
  伝統的な建築工法の街並みが変わってしまったのは、むしろ戦後の高度経済成長期でした。やはり伝統的な造りの家は、何よりも建築費用がかさむうえに、内部が暗く、不便で暮らしにくかったのです。便利で快適な造りの家並みに置き換わっていきました。あるいは、近代的な外観の店舗外装に修築されていきました。
  櫛の歯が欠けるように、木曾に特有の本棟・出梁造りの町家はしだいに姿を消していきました。それでも、建てられたのが和風の建築様式の建物だったのが救いで、歴史を感じる街並みは保たれました。最近では、家屋の継承者が絶えてしまい住民人口が著しく減少しているので、街並みをどうやって維持し続けるかが課題となっています。


三留野の街外れ、旧中山道は木曾川河畔に下っていく


旧街道はJR中央線をくぐって木曾川東岸に降りていく

  三留野宿の北の街外れで道は分岐します。ひとつは、東山神社御仮宮の前から東にのぼる与川道と呼ばれる小径で、もうひとつは、谷を下り木曾川沿いに北に往く小径で、これが旧中山道の遺構です。旧中山道は狭い谷間に降りていきます。


東山神社御仮宮の下を東に向かう与川道


旧中山道は梨子沢を過ぎてから、左折して坂の下の街に入る▲

左手の下り坂の小径を降りていく▲

短い坂を下りきって振り返る▲

常夜灯の背後には小さな社殿(秋葉社・八坂社・津島社)がある▲

この先に三留野宿坂の下と上仲町との境界の桝形跡がある▲
江戸時代には比高3メートルほどの段丘崖を利用して、
直角に2回折れ曲がる石段の道となっていたと見られる。

段丘崖地形を利用した桝形跡。往時は直角に2度折れ曲がっていた。▲

桝形をのぼってきた旅人は、上仲町の街道のこの辺りに出てきた▲

江戸時代には、ここから北に上仲町の街並みが始まったらしい▲

民箔ゲストハウス柏屋は、木曾路特有の出梁造りの町家造り▲

柏屋から道を置いて北隣が三留野宿本陣跡▲

本陣跡の前で来し方を振り返ると、町家が並ぶ景観▲

旧中山道は三留野の街通りとして北向きにのぼっていく▲

通りの右側(東脇)赤い寄棟屋根の敷地が脇本陣跡▲

出汁張り造りの古民家の軒下から旧街道を眺める▲

出梁造りの古民家は減ったが、宿場の敷地割りは残っている▲

明治期に再建された古民家の家並みが続く▲

木曾路の原風景とも言える低いシルエットの家並みに心惹かれる▲

旧三留野宿の街並みの北端。ここで旧中山道は北西に曲がっていく。▲

与川道との分岐点。上り坂の小径が与川道。▲

東山神社御仮宮の下から東にのぼっていく与川道▲

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