現在の滝不動尊堂は、目時期に廃された後、1934年(昭和9年)に場所をここに移して再建立されたものだそうです。江戸時代には、河原宿の東端の崖の上と下にありました。
  明治時代に中山道が新街道令で国道扱いになってから、河岸段丘地形が少し改造され、滝は埋め立てられ暗渠の地下水路になり、不動尊はなくなってしまったのです。そこには滝明神社もありましたが、明治末期の祠堂合祀令によって山王日枝社(現塩名田神社)に移設合祀されました。


◆滝の埋め立てで失われ、後に再建された◆



いま不動尊堂は一番上の段丘崖の上に置かれている。往古、左手の道路が境内で崖近くに堂舎があったのではないか。

  佐久平は浅間山中腹から広がる巨大な複合扇状地で、塩名田から岩村田を経て追分を結ぶ段丘崖が扇端をなしています。したがって、その地帯に湧水や沢川の水源が集中しています。


▲河原宿の東端、段丘崖の下に中山道「お滝通り」の記念碑がある


▲あずまやの北脇に立つ十九夜塔と道祖神。背後には貯水槽。


▲不動尊の直下の道路。このカーヴの先に中津橋がある。


▲石段をのぼって不動尊堂の向拝の前にいたる


▲扶桑村道の正面: 切妻破風が向拝となっている


▲狭い前庭には石仏・石神・石灯籠が並んでいる


▲背後から不動尊堂を眺める。明神社の社殿はないようだ。


▲石段の手前に御代田真楽寺への参詣道起点の道標がある


石段参道。段丘の上に不動尊堂の境内がある。

◆不動尊・明神社は滝がご神体だった◆

  河原宿と中宿の間に横たわる河岸段丘崖の地形は、明治期の新街道令やその後の道路改造、さらに昭和初期の国道と中津橋梁の建設ですっかり変わってしまいました。
  地形の改造そのものに関する記録や史料は見つからないのですが、道路と橋梁の改造・建設に関する記録から判断すると、ここの河岸段丘は2段をなしていたようです。中ほどの段丘面はなだらかな斜面をなしていたとも考えられます。
  滝の水はどこから来たかというと、おそらく十数キロメートル北東の浅間山中腹で火山灰土壌に浸み込んだ伏流水が不動尊堂の境内斜面に湧き出て崖下に流れ落ちていたのでしょう。説明板では「ケヤキの大木の根元からわき出ていた」と書かれています。
  河原宿では崖を流れ落ちる水を池に溜め、それを飲み水や宿場用水の水源とし、河原宿の中山道に施した水路を通して千曲川に落としていたようです。またその清水を用いて、茶屋を営んでいたのだとか。
  この滝は「お滝」「お滝様」と呼ばれ、お滝明神社と滝不動尊のご神体とされていたのです。
  滝の畔と崖の上には不動尊堂と明神社が祀られていたと伝えられています。とはいえ、地形が大きく変わってしまったので、往時の境内や堂舎の様子はまったくわかりません。

◆滝は憩いの場、祈りの場だった◆

  崖下の水場は中山道を往く旅人の喉を潤しただけでなく、近隣の人びとの憩いの場でもあり祈りの場でもあったようです。滝跡の脇には十九夜塔と道祖神碑が建てられています。
  十九夜とは、毎年、旧暦卯月(4月)下旬の宵に催された女性たちの――健康や安産を祈る――祈りと憩いを兼ねた集まりだったそうです。道祖神碑は明治40年頃の建立だそうです。
  段丘崖をのぼる中山道は、2回直角に曲がる踊り場付きの階段ような急坂の階段道で、高低差を利用した桝形になっていたそうです。水場の脇には休み茶屋があったことから、千曲川をこれから渡ろうとする旅人も、すでに渡ってきた旅人も、ここで一休みしたのでしょう。

◆大きく改造された地形◆

  明治政府は1873年の新街道令で中山道を一級街道(後の「国道」扱い)として、桝形の撤去や屈曲や起伏の修正のための経路の変更・改造などを義務づけました。明治25~26年(1892~93年)、千曲川には木造の平橋として中津橋が建設され、中山道は河原宿を抜ける経路から中津橋に接続する道路に改造されました。
  そのさいにお滝明神社と不動尊の境内は路盤の下に埋まり、堂舎は撤去されてしまいました。滝は暗渠(地下水路)になったようです。ただし、中山道は現在のように土盛りして嵩上げした道路にはならず、段丘崖の上から中津橋の東詰めまで急坂を滑らかに下り、河原宿とだいたい同じ高さの地盤を通る道路となりました。
  とはいえ、不動尊と神社はなくなってしまいました。祈りと信仰の場を失ってしまった住民たちは困惑したそうです。
  その後、1931年(昭和6年)に中津橋が鉄骨製プラットトラス構造に架け換えられるさいに、国道となった中山道を土盛り嵩上げして、6メートル以上も高い路面にしました。河原宿の家並みの南側背後にいきなり高低差6メートルの道路擁壁がつくられてしまったのです。
  その代わり、中宿側の段丘崖との落差は解消され、安全な舗装道路ができ上りました。このときに、おそらく公共事業の費用の助成を受けて、現在地に不動尊堂を再建立したものと見られます。

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