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長野県佐久市塩名田

  左の写真は、塩名田宿中宿から中山道から左(北)に折れて小諸道に入ったところの景観です。
  中山道と塩名田宿の街並みは、川岸から数えて3段目の河岸段丘の自然堤防(微高地)上にあります。小諸道は、その自然堤防の頂部から北に向かって下っていく込理です。
  家並みの彼方に見える丘陵は、浅間山麓の小諸高原です。

 
鎌倉時代からの古道を往く

  古来、大きな河川流域では開拓集落や道は河岸段丘面に、なかでもことに自然堤防と呼ばれる微高地上に形成されてきました。道沿いに集落の家並みが延びたり、沿道の離れた場所に新たな集落ができ上っていきました。
  信州では、古代の官道や鎌倉地時代以降の軍道は、そのような古道を土台とし、集落の間を結ぶ形で整備され発達していったと見られます。


路地を入っていくと昭和期の懐かしい家並みが両側に続く▲

  鎌倉時代から室町後期にかけて佐久平の岩村田から望月辺りまでの主な街道は、そういう古道から派生しながら、土木技術が進化するのに応じて、できるだけ道のりを短くするために、より開拓が難しい場所に移ってきました。
  中山道はそういう歴史をもつ街道の典型です。千曲川を渡る道筋はどうしても河畔まで降りていかなくてはならないので、開削が難しいうえに危険が大きな地形に挑まなくてはならなかったのです。
  中山道の前身となった道よりも古い街道は、岩村田から小諸丘陵の南端の縁を回り込んで耳取まで進み、その辺りで千曲川を越えて御牧原台地の裾野を迂回して百沢から望月まで到達したと見られます。
  耳取が交通・軍略――大井氏の耳取城と城下町ができたことから――の要衝になると、千曲川に湯川が合流する地点の東側で、塩名田の南に位置する落合とを結ぶ軍道が開削されたようです。これが小諸道またはその前身です。

■中山道と小諸道とが出会う要衝■

■小諸道の経路■

  落合から耳取を経て小諸に向かう古道は、おおかた河岸段丘面でも自然堤防となっている微高地や丘陵の背(尾根)を通っていたようです。
  塩名田宿の中心部――宿場街建設の起点――は、落合から北に延びる丘陵を降りたところにある自然堤防の頂部でした。千曲川の水害の脅威から安全といえる場所です。ゆえに、徳川幕府は中山道の経由地として塩名田を開拓させたのです。


昭和中期まで繁栄した街だったようだ

  というわけで、塩名田は小諸道と中山道との交差点となりました。落合から丘の背をやって来た古道は、塩名田で中山道と出会ってから東向きに80メートルほどズレて、自然堤防(微高地)の最高地点で小諸道に接続することになります
  こうして小諸道は、塩名田宿の微高地から北に向かって緩やかに降りていくことになります。


右手の家屋は段丘の下の敷地に建っている


来し方を振り返ると坂を下ってきたとわかる

■自然堤防の微高地往く道■

  それでも地形的に見ると、小諸道はみごとなまでに周囲よりも少し高くなっている微高地を縫うように通っています。往古の人びとは、千曲川の大きな氾濫のたびに水面に顔を出した微高地や丘、高台を記憶して古道の開拓を進めたものと見られます。
  わずかな高低差を見きわめる往古の人びとの知恵と伝統的な測量技術の高さに感服せざるをえません。
  自然堤防とは、千曲川の氾濫で押し寄せてきた水か引くときに残していった土砂が堆積してできた波状的な形の微高地です。したがって、じつに気紛れで不規則で変化に富んだ地形をなしています。道なりも屈曲や起伏が多くなります。
  そんな小諸道は、いたるところで緩やかに曲がり起伏に富んでいて、地形の立体感や道と家並みの奥行き感が印象的で、旅情をかきたててくれます。

■千曲川東岸の田園を往く道■

  中山道から小諸道に入って80メートルくらい北に進むと、しだいに田園の風景が入り混じってきます。
  塩名田は、段丘上の自然堤防の頂部に築かれた小さな宿場街なので、中山道の両側の60~70メートルほどの幅の家並みの集合にすぎません。だから、自然堤防の微高地から離れると郊外の田園地帯になるのです。
  この辺りになると、幕末から昭和中期にかけて養蚕が盛んにおこなわれたことを物語る伝統的な造りの民家が残されています。昭和後期頃に修築や補修を施された家屋もありますが、半分ほどは住人が絶えて荒廃した廃屋になってしまっています。


切妻棟入にして出梁造りの伝統的な建築様式の町家

  塩名田宿の街外れから北東方向におよそ600メートル離れた畑作地・草地のなかには、鎌倉時代前期に築かれたと見られる豪族、大井氏の五領館跡があります。岩村田を本拠とし田大井氏が佐久平西部の千曲川河畔にまで進出し、勢力を広げたさいに最初期に築いた小規模な城館の跡だそうです。
  小諸道からは東に200メートルくらい離れた小河川の谷間の北岸の微高地です。大井氏がここに初期の統治の拠点を置いて管制高地としたのは、やはり小諸道沿いの帯状の微高地の軍略的な重要性に鑑みたということでしょう。
  さらに、古代の密教修験が盛んになって以来、小諸道は信仰の道で、塩名田の滝不動尊から正縁寺の参道を経小諸道に沿って、北におよそ1.5キロメートル歩くと耳取の玄江院にいたり、そこから小諸城下を経て浅間高原の真楽寺までたどることができます。


切妻棟入にして出梁造りの伝統的な建築様式の町家


小諸道の道幅は往古とほとんど変わっていないようだ▲

街道は緩やかな下り坂になった▲


60メートルも北に往くと田園風景が混じり出す▲


昭和中期まで養蚕が盛んに営まれた広壮な農家の家屋▲


御代田の真楽寺への参詣道と合流する地点▲


昭和中期の養蚕向け二階屋を補修した民家。二階の開口部が大きい。▲


真楽寺山系道を少し戻ると正縁寺の境内となる▲


この先(北)で家並みはまばらになり農耕地帯となる▲


小諸道沿い(東側)の郊外の田園地帯の風景▲

  大井氏の五領城館は、千曲川に注ぎ込む小河川が千曲川の河岸段丘を浅く切り削って形成した谷間の北岸に位置しています。対岸側が塩名田の田園地帯で、現塩名田神社(山王日枝神社)とは北方400メートルほど隔てられています。
  領主の大井行氏は耳取大井氏の初代で、本家からこの地に派遣されて集落建設と農耕地開拓を担当したものと見られます。河岸微高地に館を築いて、千曲川ならびに小川の対岸(八幡~塩名田方面)を監視しながら、北に向けて開拓開墾を進めてたのではないでしょうか。
  塩名田側は自然堤防の周囲がときおり水没する低湿地帯となっていて、当時の土木技術、農耕技術では安全に開墾を進められないと見たものと考えられます。
  それでも、塩名田の南方の落合から帯状に続く河岸丘陵の戦略的な重要性に配慮して、開拓の初期に五領に城館を造営したのではないでしょうか。やがて、北の耳取に大規模な城砦・城館を築くと、大井館は出城のような駐屯所となったようです。

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