塩名田から中山道を歩いて駒形坂をのぼると塚原つかばら(根々井塚原)という地区にいたります。ここには2つの集落があって、塩名田に近い方が下塚原でその東隣が塚原です。この丘陵台地の一帯が塚原という地名になったのは、いたるところに墳丘のような塚があるからです。たくさんの塚がある平原という意味だそうです。
  とはいえ今では、塚のような小丘の大半は泥流や土石流で堆積した土砂であることが判明しています。今回は下塚原集落をめぐります。


◆多数の小丘に取り巻かれた村落◆



下塚原の集落: 南北に長い長方形に整備された水田圃場に囲まれた集落。背景は御牧原の高原台地。



▲広大な水田地帯のところどころに小丘があって、風景に起伏をもたらす


▲下塚原の北北東方向には浅間連峰を望む


▲南南東には蓼科山と八ケ岳高原を展望できる


▲旧中山道は駒形神社の前で丘の上に向けて県道から分岐して下塚原に入る


▲広壮な家屋が並ぶ豊かな農村集落だ


▲旧中山道の両脇に集落の家並みが続く


▲昭和前期の伝統的な造りを保つ広壮な農家住居


▲旧中山道は県道139号に合流して塚原集落に向かう
 左の道路が県道で、正面の道が旧中山道


 平安末期から鎌倉時代にかけて、この一帯に滋野氏系の武将領主が経営する馬牧場が開かれたようです。武士化した領主たちが騎馬兵団を編成するために軍馬の需要が大きくなったため、馬牧場を営む豪族の富が膨らみ、地位と権威が高まったようです。
 滋野氏系は海野氏や真田氏の母体で、官牧で馬の育成を担った一族は渡来人系だったと見られます。馬の育成に関しては、高度な知識と技能を備えていたようです。
 その馬牧場が塚原丘陵にあって、守護神として駒形神社が祭られ、領主の居館と砦、城下街が建設されたと見られます。駒形神社がある下塚原地区に城下街があったと考えられますが、痕跡は残されていません。


小丘や樹林が郷愁を呼ぶ田園景観を生み出している

  塩名田から落合、鳴瀬を通って岩村田にいたる千曲川と湯川の河岸段丘崖は、浅間山麓の巨大な扇状地の扇端をなしています。旧中山道は、湯川の峡谷からおよそ700~500メートル余り北側を並行するように通っています。
  塚原地区は、広大な扇状地の緩やかな斜面の南端近くに位置しているのです。塚原と下塚原は、浅間の南側中腹を水源とする濁川にごりがわの下流部に沿って形成されてきた集落群です。
  濁川は、その南側を流れ下る湯川とほぼ同じ長さの流れをもち、より標高が高い場所を水源としていますが、流水量は湯川に比べてはるかに少量です。扇状地の砂礫土壌の上を流れるために、相当量の流水が途中で伏流水となってしまうからだと見られます。


春、雄大な山岳を眺めながらの畑作が始まった

  とはいえ、往古、大豪雨の直後には浅間山中腹から始まった泥流や土石流が押し寄せて、膨大な土砂を運搬し堆積するとともに、ときには 膨大な土砂を浸食して湯川峡谷の断崖下に押し流してきました。
  それによって塚原には数えきれない数の土砂の小丘が残されることになりました。今でも、広大な水田地帯のなかに、あたかも古代の墳墓・墳丘のような形――比高2~3メートル、直径20メートル前後――の土砂の盛り上がり(小丘)が多数存在しています。土砂の底部には溶結凝灰岩の塊が堆積しているので、土砂を除去できず水田開拓から取り残されてきたようです。
  一方、この一帯の広大な平坦地には、1400年近くも昔、有力な豪族たちが古墳を築いたのですが、その形は泥流によって形成された小丘――流山と呼ぶらしい――とよく似ています。


敷地を土塀で囲んだ重厚な屋敷や土蔵が構成する風景

草地は往古、屋敷地だったか、屋敷神の石祠が並ぶ

  というわけで、人びとは古代の墳丘(塚)に取り巻かれた平原という意味で、塚原という地名をつけたそうです。直径数メートル~数十メートルの大小の小丘が場所によっては、数十メートル間隔あるいは数百メートルをおいて並んでいます。
  しかし、本物の古墳は互いに数キロメートル離れて点在していて――古代の豪族の支配圏域(くに)は半径数キロメートルくらいの広がりだったらしい――、そのほかの多数の小丘は泥流で運ばれた土砂の堆積なのです。そういう小丘には溶結凝灰岩が露出していて、土砂の底には岩石があって、それに引っかかって土砂が積み上がったのかもしれません。
  そういう理由で、小丘は水田の開拓・開墾から取り残されたものと見られます。江戸時代後期以降には、叢林をともなう近隣住民の墓地となってきました。


現代風の造りの家も目立つ農村風景

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