下塚原集落の東端に真言宗智山派の名覚山妙楽寺という寺院があります。歴史書によると、9世紀後半(平安中期中期)に大和王権によって建立された定額寺としての密教寺院のひとつだったということです。
  そうだとすると、往古は七堂伽藍を備えた大きな寺院だったはずですが、1000年以上を経た今は本堂と鐘楼、庫裏からなる小ぢんまりした寺です。浅間山と蓼科山を展望できる風光明媚で穏やかな農村に静かにたたずんでいます。


◆平安時代に創建された名刹◆



境内南東側からの堂宇の眺め: 左から鐘楼、本堂、庫裏居住棟



▲旧中山道から右折南面すると一対の門柱が参道の入り口


▲徳治像の背後には山桜、聖観音の脇にはソメイヨシノ


▲境内の様子: 鐘楼と本堂、庭園


▲境内南西側の水田からの眺め


▲寺の南西方向80メートルのところに小丘があって、石仏が立っている


▲小丘の叢林越しに寺と背後の福祉施設を眺める


▲境内の北西側(中山道沿い、背後)からの境内堂宇の眺め


▲水田地帯から眺めると、寺の北西の彼方に浅間山が聳えている


 妙楽寺は下塚原集落の東端、水田地帯のなかに位置する。近傍の水田地帯には小丘がいくつもある。それらの小丘は鎌倉時代に領主館の防備として利用されていた可能性もある。
 しかし、室町中期以降になると、武力闘争においては平坦地のど真ん中では防御機能がないので、近隣の湯川の河岸段丘崖に城館や砦を築いて城館を移し、跡地を寺院開基建立のために寄進したのかもしれない。
 あるいは、戦国領主に攻め滅ぼされた旧領主の居館跡に寺が移設されたとも考えられる。


寺固有の寺紋は桔梗紋で、真言宗智山派を表しているか

  名覚山妙楽寺は、平安中期の866年(貞観8年)に大和王権によって「信濃の国の定額寺として五ケ寺を列する」とされた有力な寺院で、信濃五山のひとつだと歴史書に伝えられています。
  定額寺とは、大和王権直属の国分寺・国分尼寺に次ぐ地位を保有する格式の高い寺院群で、律令制が崩壊して世俗権力の牙城として寺院が乱立する状況下、王権の権威を保つために列島各地に建立されました。ただし、その頃からこの地にあったのかどうかは不明です。おそらく、戦乱を避けてこの地に移されたのではないかと考えられます。

  ところで、下塚原は北北東に浅間山、南南東に蓼科山――その後背地は諏訪湖――を眺望する雄大な景観のただなかに位置する、扇状地末端の平原です。浅間山が見えるということは、その中腹にある真楽寺の方向を見はるかすということで、密教にとっては特別な意味をもっているともいえます。
  塚原は、古代からの戦略的要衝である御牧原・望月と岩村田を結ぶ兵站線上の中ほどにあって、平坦地ではありますが、文化や権威の伝達路の交差点位置しています。浅間山から諏訪地方を結ぶ線に沿って、点々と天台または真言の密教寺院が列をなし、近隣には集落ごとに祀られた諏訪社もまた連なっています。
  神々しさを印象づけられる浅間と蓼科の2つの霊峰を望むこの後では、自然万物のなかに神を見る自然信仰の心性を自分のなかに体感できる場所です。


大棟紋は菊で、定額寺だったことを物語っているか

  そんな塚原の村はずれに質実簡素な寺院の本堂があります。室町から江戸時代に集落の開拓にともなって、あるいは戦禍を逃れて、気鋭の僧たちの復興運動をつうじてこの地に移設・建立されたのかもしれません。
  というわけで、この辺りは密教寺院の仏教文化と諏訪大社信仰とが出会い交錯している地帯なのです。


本堂は茅葺屋根だった。近年、金属板で覆ったという

鐘楼の入母屋庇が雄大で開翼した鳳のように見える

  下塚原は丘陵平坦地です。山岳信仰である真言密教の寺院がこのような辺探知にあるのは、奇妙に感じられます。
  ところが、近隣には古代から御牧原に朝廷直轄の馬牧場が営まれていて大和王権と結びついた密教寺院があったようです。また浅間山の中腹には真楽寺があります。そういう有力な密教寺院の支院・末寺としてこの辺りに寺院が建立されたのでしょう。


境内東端からの景観

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