塚原という地名は、古代の墳墓(塚)とよく似た形の小さな丘がたくさんある平原だという風景から根づけられた地名だそうです。今では、小丘のほとんどが浅間山麓の扇状地で発生した泥流や土石流がつくりだした土砂の堆積だということが判明しています。
  浅間山の中腹からここまで8キロメートル近くも土石泥流が押し寄せてきたのです。
  今回は、この小丘群を探索してみます。


◆泥流がつくった土砂の堆積◆



平坦な水田地帯のなかに2メートル前後の高さに盛り上がっている土砂の小丘群



▲小丘群が近接している。右端の樹林は狐塚古墳に隣接している。


▲差し渡し20メートル、比高3メートル近くの大きな小丘


▲円墳と見まごうばかりの大きな小丘


▲江戸時代以前の農民の墓らしい


▲狐塚古墳の北東よりにある小丘で、墓地として利用されている


▲耳取大塚古墳: 左下は石室の入り口。
 この墳丘の周囲との比高は4メートル近くある。

  塚原(読みは「つかばら」または「つかはら」)という地名がついた場所は、たいてい、古代の墳丘や土石による構築物がある平坦地である場合が多いようです。
  旧中山道沿いにある、佐久市塚原(つかばら/根々井塚原とも呼ばれる)もそういう地形の場所です。この一帯の人びとは、水田地帯のあちらこらちに散在する小丘が、古代の豪族の墳墓(古墳)だと考えて、そう名づけたそうです。
  ところが今では、小丘のほとんどが、豪雨の後で浅間山の中腹から流れ下ってきた泥流=土石流がつくりだした土砂の堆積であることが検証されています。泥流に流されてきて、ここに突き上げられた小丘なので、「流れ山」とも呼ばれることがあります。


小丘の頂部は均されていて、墓地となっている


圃場整備でここに移された古い石仏群もある


大日如来や阿弥陀如来は密教寺院の遺物だと見られる

  なかには、ごくわずかに本物の古代の墳丘・墳墓(古墳)があります。それらは、小さな地方部族侯国の豪族(君侯)の墓ですから、それぞれ数キロメートルは離れています。小侯国は、半径が数キロメートルの版図圏域をなしていたということです。
  妙楽寺から南に300メートル離れたところに狐塚古墳がありますが、これに一番近いものとして、耳取の大塚古墳があります。距離は北に3キロメートル近くあります。

  泥流で積み上げられた土砂の底部には溶結凝灰岩などの大きな石が堆積していると見られます。したがって、そういうところは、現代の機械力技術をもってしても水田の開拓開墾はできません。まして、往古の人びとにとっては開墾どころではなく、太古の王たちの墳丘として崇敬し手を付けずに保存するしかなかったでしょう。
  石室などの遺構があるものは、古代の豪族の墳墓として崇敬してきたようです。そのほかの小丘は、集落や氏族の墓地として利用したり、枯れ葉や草を肥料するための柴山(雑木林)として利用してきました。

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